長年関西で一番住みたい街に選ばれた「西宮北口」地域はどんなところか?
その魅力は何処にあるのか?
こんな魅力ある西宮北口は阪神淡路大震災で壊滅的な打撃を受けたこともあり、大きく変貌した。
その変貌の歴史を振り返ってみたい。
またこの地域は阪急電車の線路により、四つのブロックに分割されている。これになぞらえてこの地域を「四つ葉のクローバー」に例えられることもある。
それぞれのブロック毎に際立った特徴があり、それぞれの今昔を振り返ってみたい。
西宮の起源と遺跡発掘
西宮という地域はどのようにして誕生したのか、興味深々であるが、歴史は長く複雑であるため、その概略をたどってみた。
また西宮という地名はどのようにして誕生したのかも種々説があるが、探ってみた。
この記事の詳細は<西宮の起源と遺跡発掘>を参照。
西宮北口駅の今昔
1920年(大正9年)7月6日、大阪と神戸を結ぶ「阪神急行電車神戸線」が営業を開始し、西宮北口駅は誕生した。翌年9月2日、西宝線が誕生し北の宝塚とつながった。 さらに1926年(大正15年)12月18日、西宝線は西宮北口駅から今津まで南へ延伸され、今津線と名称を変更し、ここに神戸線と平面交差する「ダイヤモンドクロス」は誕生した。
この記事の詳細は<西宮北口駅の今昔>を参照。
高松ひなた緑地に残るメモリアル
阪急西宮ガーデンズのすぐ北に「高松ひなた緑地」がある。
入り口には交番があり、その東に余り広くないが緑地が広がっている。
高松ひなた緑地は二つのブロックに分かれているが、西の入り口ブロックには交番の建物がある。
東側のブロックにはこの地域の歴史的なモニュメントがある。
西から「高畑町遺跡」「阪急西宮スタジアム」「ダイヤモンドクロス」の歴史を示すモニュメントだ。
この記事の詳細は<高松ひなた緑地>を参照。
ポンテリカと旧北口市場
現在アクタ西宮がある場所に公設西宮北口市場があり非常に賑わっていた。
しかし阪神淡路大震災(1995年1月17日)で壊滅的な被害を受けた。
市場が再開されるまで、東側にあった阪急電車の敷地に1997年8月22日仮店舗が開設された。
その名前が「ポンテリカ」で仮店舗(かりてんぽ)を逆さに読んだ名前だ。
鉄骨3階建て述べ床面積7,000㎡で、駅前商店街と公設市場など約230店舗の内、約50店舗が入居した。
それと並行して再開発が進められ、2,001年4月20日にアクタ西宮が開業されると共に閉鎖された。
この記事の詳細は<ポンテリカ>を参照。
アクタ西宮と旧北口市場
1995年1月17日の未明に発生した阪神淡路大震災で最も甚大な被害を受けたのが、西宮北口北東地域であった。
この地域には西宮市民の台所として活況を呈していた北口市場と北口本通商店街があっ たが、一夜にして壊滅的な被害を受けた。
その後に建設されたのが「アクタ西宮」として親しまれている複合施設である。
この記事の詳細は<アクタ西宮と旧北口市場>を参照。
円形広場と春の唄
西宮北口駅の北改札口を出て回廊をアクタ西宮方面に行くと、アクタ西宮東館と西館の間に円形広場がある。
この広場の北側に、この地域に住んでいた貴志邦三氏の作詞による「春の唄」の記念碑が掲げられている。
この記事の詳細は<円形広場と春の唄>を参照。
アメリカ博
終戦後まもなく、西宮北口で「アメリカ博」が開催された。
場所は、もと「阪急スタジアム」の周りで、広範囲な場所で昭和25年3月18日から6月12日まで朝日新聞社主催、外務省・通産省・建設省・文部省・国鉄そして西宮市が後援し、連合軍総司令部の全面的協力によって 「アメリカ博」が 開催された。
これは戦後における本格博覧会の最初であった。
この記事の詳細は<アメリカ博>を参照。
西宮球場から西宮ガーデンズへ
1936年に阪急電鉄の小林一三の「阪神甲子園球場は6か月で出来た、阪急西宮球場は5カ月で完成せよ」との掛け声の下1937年に開業した。
阪急電鉄所有のプロ野球チーム「阪急ブレーブス」の本拠地として使用されるほか、競輪場やアメフトの試合、コンサートや様々なイベントにも使用されており、多目的経営の先駆けとなった球場である。
阪急電鉄が球団を譲渡してオリックスがフランチャイズを移転した後の1991年に「多目的スタジアム」であることを標榜し「阪急西宮スタジアム」へ改称した。
「阪急西宮ガーデンズ」は「阪急西宮スタジアム」跡地に完成した複合商業施設。
「阪神間の豊かな自然環境との調和」をテーマに、生活提案型ショッピングモールとして2008年に誕生。
西宮阪急百貨店やトーホーシネマズ西宮、イズミヤなどを核テナントに数多くの専門店が一堂にそろう西日本最大級のショッピングモール。
かつては西宮市内にもたくさんあった映画館もなくなり、今はここにあるトーホーシネマズ西宮だけだ。
この記事の詳細は<西宮球場>及び<阪急西宮ガーデンズ>を参照。
元西宮球場周辺のスポーツ施設
2008年(平成20年)11月に開業した大型複合商業施設「阪急西宮ガーデンズ」は元「阪急西宮球場(阪急西宮スタジアム)」の跡地に建設された。阪神甲子園球場に対抗して作られた阪急西宮球場は建設期間わずか5カ月という短期間ながら、当時としては最新・最高の設備を備えた球場であった。
阪急西宮球場は阪急ブレーブスの本拠地球場としてだけではなく、「西宮競輪場」としても活用され、その他各種競技やイベントにも活用された。
また、球場周辺には各種スポーツ施設がその時代に適合するように設置され、周辺はスポーツセンターとして人気を集めていた。
主な施設は第二球場、西宮球技場、テニスコート、ゴルフ練習場、コマボーリング場等があり、かつては屋外プールも設置されていた。
この記事の詳細は<元西宮球場周辺のスポーツ施設>を参照。
日芸会館から芸文センターへ
2005年(平成17年)10月に西宮北口駅南に「兵庫県立芸術文化センター」がオープンした。当初阪神間にこのような大型劇場は成功しないと言われていたが、2015年の開館10周年には600公演、来客毎年50万人を超える人気の劇場となっている。
もともとこの地には1950年に上田隆一氏が中心となり、能楽界の人たちの手で、劇場を造った。これが「日芸会館」で、芸文センターの東隣、「プレラ西宮」の場所にあった。「日芸会館」は、時代に先んじ過ぎたこともあって、5 年ほどしか継続できず、その後、映画館になったが、その映画館も姿を消してしまった。
この記事の詳細は<日芸会館から芸文センターへ>を参照。
中央公民館とプレラ西宮
西宮市の公民館活動は昭和20年代から活発に展開されてきた。1959年(昭和34年)に鳴尾公民館が独立の公民館として設置され、その後1964年(昭和39年)に「中央公民館」が設置された。(参考資料:公民館とコミュニティ活動 倉田和四生 1990年3月)
中央公民館が設置された両度町は、太平洋戦争末期に航空機錬成場が置かれ、敗戦後の1948年(昭和23年)に公営の鉄筋集合住宅が建てられた。
当時の西宮球場から西に延びる道路の津門川に架かる球場橋の東北に中央公民館は開設された。
この記事の詳細は<中央公民館とプレラ西宮>を参照。
住宅地としての開発・西宮北口
1950年(昭和25年)西宮球場を中心に開催された「アメリカ博」が終了すると、第二会場跡地に「阪神間で最初の県営住宅」が建設された。
西宮北口駅周辺は阪急線により4ブロックに分割されるが、今津線の西側南北が主に住宅地として開発された。
南側は主に公営住宅や社宅等が建設され、北側には阪急電鉄が開発した「甲風園」や日本ペイントが開発した「昭和園」が住宅を建設した。
これらの現状がどうなっているか訪ねてみた。
この記事の詳細は<住宅地としての開発・西宮北口>を参照。
にしきた公園の変遷
西宮北口地域は阪急電車の神戸線と今津線で四ブロックに区切られていて、「四つ葉のクローバー」に例えられることがある。
現在はそれぞれのブロック間の往来は可能であるが、当初は駅構内を通らないと困難であった。
駅北西の地域は、阪急電鉄の開発した「甲風園」及び日本ペイントの開発による「昭和園(現在は北昭和町と南昭和町)」の住宅が広がる地域で、駅近くの南地区の商店街が発達するまでは、この出口を利用するのは地域の住民が主であったと想像する。この西口改札口前には樹木が植えられ、ブランコ等の遊具がある公園が造られていた。時代に応じて何度も改築変更されているが、その「にしきた公園」の変遷をたどってみた。
この記事の詳細は<にしきた公園の変遷>を参照。
変わらない西口地域
1995年1月17日未明の阪神淡路大震災で大きな被害を受けた西宮北口地域。
今津線北側の第一踏切を挟んだ東側の北口市場や北口本通商店街が壊滅的な被害を受けたのに対し、西側の甲風園にある商店街はそれ程大きな被害は受けていないようにみえる。
この地域は西宮北口で最も賑わっている商店街で、飲食店が数多く並んでいる。
駅出口の「にしきた公園」の周辺には証券会社や学習塾もあり、銀行等もある。
この記事の詳細は<変わらない西口地域>を参照。