西宮という地域はどのようにして誕生したのか、興味深々であるが、歴史は長く複雑であるため、その概略をたどってみた。
また西宮という地名はどのようにして誕生したのかも種々説があるが、探ってみた。
廣田神社の境内に「古代遺跡と現代の西宮」と「江戸中期の西宮付近」という地図が掲示されている。
これによると古代西宮には内海があり、その当時の船が500艘も係留できる程の広さがあったとされている。また周辺には多くの遺跡が存在したと記されていて、古代から多くの人々が暮らしていたと言える。
江戸時代中期の地図を見ると、西宮は夙川(宿川)と東川(津門川)の運んでくる土砂で埋められて内海が消失している。
西宮周辺には多くの遺跡があるが、この地域は阪神淡路大震災後に再開発が行われ、開発に先立って遺跡調査が行われた。
中でも西宮ガーデンズ南側の高畑町遺跡には奈良時代の井戸跡が発見されたり、多くの出土品が発掘されている。
旧アサヒビール跡地には新しい病院の建設が予定されているが、それに先立ち遺跡調査が行われている。この津門大塚町遺跡から2022年11月に埋設する8基の古墳群が見つかっている。また2023年1月にはさらに新しく2基の古墳と33棟の住居跡が見つかった。
特筆すべきは鉄器を製造していたと見られる遺跡も見つかっている。
西宮という地名はどのようにして誕生したのか、いろいろな説がある。
その中でも有力とされているのは、京の都から見て西にある重要な神社「廣田神社」の別称に由来している。
廣田神社は神功皇后摂政元年(201)に神功皇后の指示のもと創建されたとされている。
神功皇后が三韓征伐の帰り、難波の津で嵐に会い、西宮の浜に戻ってきたときに、天照大神よりお告げがあり、「荒御魂」を皇居に近づけてはならない、この地に神社を建ててお祀りせよとの指示のもとに建設されたとされている。
西宮の起源を駆け足で辿ってみた。
詳しくは以下の資料を参照願いたい。
「廣田神社・ご由緒」 「高畑町遺跡出土木製品 学芸員解説」 「津門大塚町遺跡から8基の埋没古墳群などが見つかった」 「アサヒビール跡地「津門大塚山遺跡」で、鉄器製作の痕跡が見つかった」