昨年の秋「西宮市上鳴尾 三姉妹の戦争の記憶〜子どものころ戦争があった〜」と言う小冊子に出会った。
西宮ピースの吉﨑恵美子さんが、当時上鳴尾にお住まいだった三姉妹からお話を聞き取りまとめたものだ。
「最初は、1945年8月5日夜半から6日未明までの空襲のお話をお伺いするつもりだったのですが、戦争中の話しがどんどん出てきて・・・・。これは、まとめないといけないわ!と思いテープ起こしを元に作りました。」
28ページの冊子には、幼かった頃の戦争の思い出、子どもたちの暮らしぶりが詰まっている。
そんな冊子の話とともに、鳴尾にひっそりとあった戦争遺構の橋が保存されることが決まった経緯についてもお聞きしてきた。
小冊子『三姉妹の戦争の記憶〜子どものころ戦争があった〜』
戦時中、上鳴尾(あげなるお)にお住まいだったきみこさん、たまえさん、さきこさんの三姉妹は、まさに第二次世界大戦が始まる直前に上鳴尾に引っ越してきた。
長女のきみこさんが5歳だったようだ。
小冊子には、そんな幼い子ども達の目から見た戦争中から戦後の日々の生活や、当時の思いなどが振り返られている。

この冊子のきっかけとなったのは、吉﨑さんが「鳴尾に残る戦争遺構の橋の保存」の活動の一環で現在も上鳴尾にお住まいの三女・さきこさんに、昭和20年8月5日深夜から6日の未明にかけての空襲(阪神大空襲)のお話を聞きに行ったことだった。
「三女のさきこさんは、終戦当時まだ幼かったので(終戦当時、9歳・5歳・1歳の三姉妹)ご自身の直接の記憶というよりその後にお母さんなどから話されたことの記憶が多かったようです。で、さきこさんが三姉妹LINEに「橋の保存」のことを流すと、主に長女のきみこさんから長文の書き込みがどんどん入ってきたようです。それで三姉妹の方全員に集まっていただいてお話をお聞きすることになりました。子どもとしての思いであったり、子どもとしての目線での戦争中の話などをお聞きする中でこれは残さないといけない!と思ったんです。」と吉﨑さん。
今年は終戦から80年。
これだけの時間が流れても、話しはじめたらたくさんの思い出が溢れてくる。
今更、積極的に話すこともないが、話すきっかけがあれば自分が経験したことを話したい!ということなのかもしれない。
この歳になったからこそ「残したい!残さないといけない!」という思いに駆られるのかもしれない。
今、世界のあちこちで戦争があり、瓦礫と化した街並みや負傷者の姿がテレビ画面などに映し出されている。
あの戦争を体験した人たちは、きっと自身の体験と照らし合わせて、そのテレビ画面を重い気持ちを抱えて見ておられるのだろう。
8月6日といえば広島に原爆が投下された日。
昭和20年になってからは、日本国内のあちこちで空襲があった。
西宮でも何度か空襲を受けているようだが、この時の被害が一番大きかったようだ。
西宮神社の本殿も、この時焼失している。
この日の空襲で亡くなった人は、旧西宮市485人、鳴尾村で188人。
(この時点では、鳴尾村はまだ西宮市と合併していなかった。)
できれば今後の平和教育などでも使ってもらえたらいいな!ということで作った1000部の冊子は配り切り、追加で1000部を増刷。
小冊子「西宮市上鳴尾 三姉妹の戦争の記憶〜子どものころ 戦争があった〜」
A5判、カラー30ページ。1冊200円(送料別)
問い合わせは「西宮ピース」の吉﨑さん(090★9255★6438)
西宮ピースの吉﨑恵美子さん
京都府綾部市出身の吉﨑さんは、児童書を片っ端から読む本好き少女だった。
「軍港のあった舞鶴がすぐ横でしたから祖母からは戦争中の話はよく聞いていましたね。祖父は日中戦争に行っていたようでしたが、本当に当時のことは何も話さない人でした。」
そんな吉﨑さんが平和活動を意識したのが大学時代だった。
「大学生になって初めて広島に行ったのが『原水爆禁止』の大会でした。見たこともないたくさんの人たちが『核兵器反対』『戦争反対』の声を上げていて・・・。自分も目を背けたらあかん!!と思いました。さまざまな人たちと交流していく中で、世の中の理不尽と闘っている人の姿から学ぶことも多かったです。」

そんな吉﨑さんは就職して西宮に住むことになり、働いている間はなかなか地域の活動まではできなかった。
2023年に定年退職した年の8月、浜脇小学校で行われていた「西宮の空襲を語り継ぐ会」初めてに参加し、自分が住んでいるこの土地でも、かつては空襲があったり、ウクライナやガザと同じだったんだということを知り、そのことを次の世代に残したい!と思ったことが始まりだったようだ。

こうして、積極的にさまざまな会に出席したり、話を聞きに行く中で鳴尾の川が暗渠になり、たくさんある橋のひとつが爆弾の跡の残る戦争遺構で、まだ保存が決まってないことを知った。
「平和と福祉のまち西宮をつくる会」「西宮の空襲を語り継ぐ会」の協力を得て、学文公民館で写真展を行ったが、それがきっかけで橋を残したい気持ちを持つ多くの人とつながっていった。
「戦争は、普通の人の暮らしや感情を全て奪ってしまいます。たった80年前に私たちが住むこの場所にあった惨状が時間と共に忘れられていくのはダメだと思うんです。今回作った冊子は、おかげさまでたくさんの人たちが声を上げ、語り継ぎが広がるという大きな反響もいただきました。また、こうした残っている遺構などを活用して語り継いでいきたいと思っています。」
戦争遺構として『空襲の弾痕の残る橋』を残す!
暗渠の工事が進んでいる本郷学文筋の旧国道から北側の水路にかかる小さな橋。
鳴尾北小学校の校庭の北側あたりにある小さな橋。
その橋が砲弾跡の残っている橋であり、8月6日未明の空襲で南から逃げてきた人たちが身を潜めた橋であった。
また残念ながら、そこで命が終わってしまった人もいた橋であったことを、古くからの住民は知っていた。
ただ今では、何も知らずにそこを通っていた人も多い。
この水路が暗渠になるという計画を知った地域住民の方が、暗渠になると同時に撤去されるこの橋を残したい!という思いが、吉﨑さんたちの活動ともつながっていった。

こうして、西宮市に働きかけたりもして、この橋が保存されることが決まった。
保存先は、この橋があるすぐ近くの学文公園だという。
こうした遺構が、歴史を語り継ぐきっかけとなり平和学習にも使われていってほしいと思う。
『なるお昔語の集い』@鳴尾中学地域交流室
鳴尾中学校には「地域交流室」がある。
「鳴尾の歴史を語り継ぎ、後世に残していくことが鳴尾中学校の役割」として平成30年にできた。
この場は卒業生や地域住民も活用できる場となっていて、これまでも鳴尾の歴史を学ぶイベントなどもされてきた。

2025年7月5日(土)は『戦争と平和 輝けなるお』として、三姉妹の冊子の三女さきこさんと吉﨑さんが参加されるとお聞きして参加してきた。
この日は、4人の方がそれぞれの視点で発表されたが、広い交流室には70人近くの参加者があり熱心に耳を傾けた。
こうして中学校の一室が地元の歴史を知り伝える場所になっていることが、大勢の住民の方が集まって来られることにもつながっているように思う。
この日は次女のたまえさんと三女のさきこさんが出席され、冊子を作ったことでの反響や効果などにも触れられていた。

会場には鳴尾中学のコーラス部に新しく作ってもらった音源の「鳴尾村歌」が流されていたが、 これは鳴尾が西宮市に合併するまでの4年間しか使われなかった村歌だったようだ。
5番まである歌詞の最後の部分が「大鳴尾」と結ばれていて、今の「鳴尾はひとつ」というスローガンにつながっているのだろうなと思った。
鳴尾の歴史を調べたり、語ったりしている方は、よく「鳴尾は次々新しいものを取り入れてきた地域なんですが、古いものの痕跡は残して来なかったんです。」とおっしゃる。
遺構は、歴史を知るきっかけとなる重要なものだろうと思う。
地元の歴史を地域住民が知り、地元に愛着を持つ。
鳴尾中学校の地域交流室は、そんな流れを作り出す一つの拠点となっている。