江戸時代の水争い―上ヶ原用水・北郷用水・百間樋―

指定文化財公開展 「上ヶ原用水路」
2012年10月2日(火)~2012年11月25日(日)  西宮市立郷土資料館

10月17日(水)の歴史講座「江戸時代の水争い―上ヶ原用水・北郷用水・百間樋―」を
聴講した感想ご紹介します。


今回の展示は西宮市指定文化財「史跡上ヶ原用水路」に関連して、安政4(1857)年に
取り決められた「仁川大井滝用水論所絵図」などが展示されています。
これは論争が起きたときに話し合って取り決めをして、それをもとに絵図や文書を作った
もので、絵図の裏には村役人たちの署名押印があります。

 

歴史講座ではこれに関連して、西宮市で起きた水争いについて解説がありました。

たぶん一番有名?なのが北郷用水の水争いでしょうか。
天正19(1591)年ころ、北郷伏樋をめぐって用水の川上の瓦林村と川下の鳴尾村との
間に争いが起きたというものです。
まだ戦国時代の名残のある時代なので、争いといっても村同士のちょっとした合戦の
ような規模になっていたかもしれないと言うことでしたが、この件に関して残されている
「豊臣氏奉行衆裁許状」「前田玄以書状」の内容を見て、武力だけでなく話し合いで
問題を解決しようという世の中に変わりつつあるとも読み取れるそうです。

また、現在鳴尾の北郷公園に義民碑が建てられていて(昭和18年)、とてもすごい
事件のように伝わっていますが、事件から150年ほど後の瓦林村の庄屋の日記には
「昔、水論があって瓦林庄にけが人が出た」という程度で争いそのもので死者が
出たようには書いてはいないそうなので(鳴尾村には死者がいるのかもしれませんが)、
まだまだはっきりしないことも多いようです。

 

つぎに、仁川の下をくぐる百間樋用水の水争いです。
 (以前の紹介記事 http://nishinomiya-style.jp/rekishi-sanpo/?p=134)

永禄年間(1560年頃)にはあったとみられる百間樋、これを横切るように水路を作ろうとした
蔵人村(宝塚市)に対して、百間樋の水を利用していた14村のうちの7村が反対し、
蔵人村の作った樋を壊して京都町奉行所へ訴えを起こしました。

論争の経緯は詳細な日記として残されているのですが、蔵人村と百間樋7村の対立、
百間樋14村内でも蔵人村新樋に反対の7村(尼崎藩領以外)と賛成の残りの村(蔵人村と
賛成村は尼崎藩領)の対立など一年以上かかってやっと決着したそうです。

 
百間樋                       上ヶ原分水樋

そして、今回の展示の上ヶ原用水路は、慶安年間(1650年頃)に上ヶ原台地の
開発に伴い仁川上流の社家郷山の水を湯ノ口から仁川大井滝を経て上ヶ原新田へ
引いたものです。

上ヶ原新田は五ヶ山用水を利用していた大市庄5村と分水の取り決めをしますが
明和5(1768)年に大井滝が大破したのを機に水路として岩穴を掘ったり、
安政3(1856)年に五ヶ池を掘ったりして用水路を整えるたびに分水の話し合いを
しているのですが、それでも度々論争が起き、そのひとつが今回展示の
安政4(1857)年「仁川大井滝用水論所絵図」からもわかるわけです。

西宮あたりは武庫川がすぐ近くて水は比較的豊富にあるんじゃないのかな、
となんとなく思っていたのですが、洪水や旱魃など天候の変化で生活に大きな
影響が出るので水の確保に必死だった当時の様子が少しわかったように思いました。

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