先日、『伊丹諸白』と『灘の生一本』下り酒が生んだ銘醸地、伊丹と灘五郷 が
伊丹・尼崎・西宮・芦屋・神戸の5市が関係する日本酒文化の地域として、
2020年6月19日に日本遺産に認定されたと記事にしました。
ふと、どこが一番古いのだろうと気になったのですが、よくわかりません。
以下は、ものと人間の文化史172 『酒』 吉田元 を読んでの覚書です。
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酒は古代から世界中で飲まれていて、土地柄によってブドウなどからの果実酒や
芋や穀物などからのでんぷん酒などがある。
日本でも神前に供えることや、古事記や万葉集にも飲酒の様子がある。
古代の朝廷の造酒司の酒については記録が残っているが、そのほか民間の酒屋の
様子についてはよくわからない。
鎌倉時代の初めには京都には数多くの酒屋があったという記録があり、鎌倉でも
酒販売の禁止が出されるほど民間でたくさん酒が作られていたらしい。
室町時代の京都では「土倉(どそう)酒屋」と呼ばれる金融業も兼ねる富裕階級の酒屋が
多く、また貴族や僧侶の日記には自分の屋敷や寺で正月用に使う酒を甕で手作りする
記載があり、それとは別に寺院では商業的規模で酒造りをするようにもなった。
室町末から戦国時代にかけては洛中伏見以外の酒は「田舎酒」と呼ばれていたけれど
大津(滋賀)・平野(大阪)・尾道(広島)などの酒も有名だった。
江戸時代前半に上方の主要な生産地は伊丹だった。
伊丹の酒は辛口で江戸っ子の嗜好に合っていたようで、江戸時代後期でも評判が
高かったようだが、伊丹から神崎まで馬で運び小型船で伝法まで運んでから大型船に
積み込むという手間と費用が灘との競争に不利になり出荷量は減っていった。
灘の範囲は時代により変化しているが、今は今津・西宮・魚崎・御影・西郷で、
土地が狭いため農業だけで充分な収入が得られず、副業として酒造や油絞りをする
農家が多かった。
江戸時代中頃には大阪三郷や西宮は衰退し、新興の灘と今津が大きく躍進した。
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伊丹の酒が江戸で人気だったという資料として、「天保改 江戸積銘酒大寄 大新板」
という番付が『関東を主とする酒造関係資料雑纂66巻』から紹介されていました。
(国立国会図書館デジタルコレクション・コマ22より切抜)
これを見ると確かに草双紙の挿絵などでも「剣菱」や「七つ梅」や「男山」などは
目にすることがあると思いました。
ただデザイン的に目に留まりやすいからという私の注意力の問題かもしれませんが…。
(NDL「似た山曽我」コマ7より切抜) (NDL「江戸名所図会」1巻コマ59より切抜)
剣菱の菰樽と下り新諸白の札 店先に積まれる男山や七つ梅
今回日本遺産に認定された伊丹や灘での酒造りの歴史は、伝承も含めていつごろまで
さかのぼれるのかをまとめた情報がそう都合よくは見つからないので、自分で
各地域ごとに歴史を調べてみないと分からないみたいです。