西宮モダニズム 「えき」と「まち」

鳴尾公民館講座 2014年8月11日(月)開催
西宮モダニズム 「えき」と「まち」 -なぜ駅はそこにつくられたのか-
講師は武庫川女子大学の水野優子さんで、阪神電車本線の駅を中心にした話を
聞きましたので、簡単にまとめてみます。

まず西宮を走る鉄道は、官営鉄道の東海道本線が明治7(1874)年に開業し
神戸-三ノ宮(現元町)-住吉-西ノ宮-神崎(現尼崎)-大阪の駅が出来ました。
これは大坂と神戸を結ぶのが主な目的だったので、内陸の田園地帯をまっすぐ
走り、その間の駅は城下町の尼崎、港町の西ノ宮・住吉・三ノ宮などの
主要な都市にしか作られませんでした。

阪神電車の本線が開業したのは明治38(1905)年で、その時に現西宮市域には
戎-西宮-西宮東口-今津(現久寿川)-鳴尾-武庫川(正確には尼崎側)が開業、
明治40(1907)年に戎廃止と香櫨園開業、大正13(1924)年に甲子園(臨時)から
2年後常設駅に、大正15(1926)年新しく今津が開業し元の今津が久寿川に改称。

阪神電車は官営鉄道より南を集落を結ぶようにしてつくられたということで、
明治時代の地図と路線を見比べると、西宮町の北に戎・西宮・西宮東口の3駅、
今津村の北組と南組の間に今津駅(現久寿川駅)、初めの計画では今津と武庫川を
まっすぐ繋ぐはずだったのを用地を提供して村の近くに駅を作ってもらったから
路線がややカーブしている鳴尾駅、尼崎の西新田村の南に武庫川駅と、
確かに在来の村々を繋いでいるということがよくわかります。

香櫨園は今の夙川公民館のあたりに出来た香櫨園遊園地の最寄り駅として、
甲子園は甲子園球場周辺の甲子園大運動場の最寄り駅として、行楽地用に
駅を作ってから町が発展していったケースになります。

また、阪急電車は神戸線が大正9(1920)年開業し夙川と西宮北口が出来ましたが、
大正10(1921)年に西宝線、大正13(1924)年に甲陽線、大正15(1926)年今津線が
開通と路線を延ばし阪神電車との競争が激しくなっていきました。

そんななか、現今津駅は阪神と阪急の路線拡張争いによって集落のない場所に
阪急が駅を作ったので阪神もそれに対抗してすぐ横に駅を作りました。
これは阪神が出屋敷から宝塚へ武庫川沿いを結ぶ路線を申請したので、対抗して
阪急は西宮北口から南下して海沿いを東へ進み尼崎から塚口へ結び、伊丹から
宝塚を結ぶ循環ルートを申請して、その一部として今津開業だそうです。

他にも、苦楽園温泉の最寄り駅は阪神香櫨園駅で人力車やタクシーなどで
お客を運んでいたけど甲陽線が出来て阪急にお客を取られたとか、阪神阪急の
歴史を時系列に並べることで昔の両社の争いのすごさを改めて感じました。

最後に、以前にも記事にした「にしのみやえびす駅」の位置が、あくまでも
推定の域ではありますが、町場の近くで既存の主要道路沿いに作ると言う
観点から産所公園のあたりだったらしいということを紹介されていたので、
それが個人的には一番の収穫ですっきりしました。

タイトルとURLをコピーしました