第29回特別展示 「西宮の前方後円墳 -津門稲荷山古墳をさぐる-」
2013年7月30日(火)~9月1日(日) 西宮市立郷土資料館
8月10日(土)の展示解説会と特別見学会に参加した感想ご紹介します。
今回の展示は西宮の前方後円墳を紹介する企画展ですが、神戸や芦屋や
伊丹などに今も残っている前方後円墳の紹介や発掘調査で見つかった
埴輪や鉄器や石器などの出土品が主に展示されています。
というのも今の西宮には苦楽園などに円墳はありますが前方後円墳はありません。
ただ、大正時代に書かれた紅野芳雄氏の「考古小録」などの資料から推察される
ものとして、津門稲荷山古墳、津門大塚山古墳、上ヶ原車塚古墳という三つの
前方後円墳があったと考えられています。
津門稲荷山古墳は大正12(1923)年の国道2号線開通工事の時に後円部から土砂が
採られたようですが、それ以前に前方部の台形のような部分もほとんど失われて
杓子状にしか残っていなかったことが紅野氏の記録からわかります。
平成6(1994)年にこの推定地で発掘調査が行われたときには古墳の遺構は見つかり
ませんでしたが、埴輪や須恵器の破片が出土したので、このあたりに古墳が
あったらしいことは 確認されました。
この時みつかった埴輪は古墳時代中期のものですが、昭和52(1977)年ごろに
この推定地の少し南でも埴輪の破片が見つかっており、こちらは古墳時代後期の
ものなので、津門稲荷山古墳を中心にして周りに小さな古墳が集まって古墳群を
形成していたとも考えられるそうです。
津門大塚山古墳はアサヒビール西宮工場のあたりにあったらしいのですが、
明治5(1872)の国鉄敷設工事で土砂採取され、大正時代の紅野氏の記録には
古墳があったといわれる場所にできた池と、そこに残る古墳に使われていたと
思われる巨石の記録があるだけです。
上ヶ原車塚古墳は安政4(1857)年の「大井滝用水論所絵図」に描かれた高塚と
いうのがそれのようですが(現在の上ヶ原二番町あたり?)、吉井良秀氏の
大正時代初めころの記録に消滅前の状況がわずかに残る程度で詳しいことは
伝わっていないそうです。
. (今回は許可を得て撮影しましたが、本来展示室内は撮影禁止です)
.
午後からは古墳の見学で、神戸市の東求女塚古墳・処女塚古墳・西求女塚古墳を
暑い中歩きました。
これらの古墳は古墳時代前期のもので、西宮にあった津門稲荷山古墳は中期、
津門大塚山古墳と上ヶ原車塚古墳は後期のものと時代は少し違うのですが
今も残っていればこんな感じのものだったのかと想像しながら見学しました。