中国絵画と日本人

第8回西宮博物館・資料館連携講座「中国絵画と日本人」
2013年3月2日(土)を聴講した感想をご紹介します。

今回の講師は黒川古文化研究所の竹浪遠氏で、中国絵画が日本の絵画に与えた
影響をスライドで比較しながら分かりやすく説明していただきました。

130302CIMG2036 昔から日本人も独自に絵を描いていた
 だろうし中国からの絵画にも触れていた
 だろうけど、ということですが、まずは
 日本の古墳時代には銅鏡の神仙や
 神獣の図像などを目にしていただろう
 という解説からはじまりました。

もともと中国では勧戒(かんかい)主義という勧善懲悪を勧める思想教育の
手段として絵画が存在するという考えだったそうです。
そのために人物画が多く、しかも世の中に気が満ち溢れている様子を表現する
事が求められたため曲線的な表現が用いられています。

その表現例として、飛鳥時代の玉虫厨子と隋・初唐の敦煌壁画の「捨身飼虎図」の
人物の体のラインのなめらかさや両図の構図の類似点が紹介されました。
また奈良時代の正倉院の「鳥毛立女図屏風」にも盛唐の「仕女図壁画」のように
技法構図ともによく似た絵画があるそうです。

ところが平安時代になると遣唐使の廃止などでそれまでほどは中国との交流が
活発でなくなったからか、少しずつ絵画の傾向が違ってくるそうです。

唐時代に、今までの人物中心の絵画にかわり青緑山水画(カラーの風景画)が
発展してきて、唐の次の北宋の時代には文人士大夫(ぶんじんしたいふ・科挙で
選ばれた貴族ではない文官)の文化の中で徐々に自分の胸中を詩のかわりに
絵に託したような水墨画の山水画が流行るようになります。
けれど同時代の平安貴族達にとっては一世代前の唐の絵画が手本のままとなり、
「源氏物語絵巻」のような大和絵といわれるカラーの絵画が受け継がれていきます。

中国ではこの後も水墨山水画が主流となりますが、北宋ののち南宋・元・明と
王朝が変わるたびに宮廷画家の流派(院体画)だったりもっと自由な士大夫の
流派(文人画)が盛んになったりと変動したそうです。
そのころ鎌倉・室町時代の日本には禅宗とともに水墨画が伝わり、室町時代に
活躍した雪舟などは斧で切り取ったような鋭い岩肌の表現をする院体画の影響を
受けていますが、このとき日本では水墨画はあまり定着しませんでした。

明末から清にかけては文人画の時代となり、日本でも江戸時代中頃になって
「南画(なんが)」として広まりかけていくのですが、明治維新で国のありようが
大きく変わり、芸術面でも西洋文化のほうが重要視されていきます。

その後中国も中華民国成立時に国が混乱し、そのとき散逸しそうになった美術品を
主に関西の財界人などが収集し保存した事によって、現在関西の美術館博物館で
中国に残っていないような優れた作品も見ることが出来たりするそうです。

ただやはり今でも日本での絵画の主流は西洋画ような感じがします。
私自身水墨画や南画というとよく分からないのであまり興味はなかったのですが
今回の講座ですこ~しだけ、なんとな~く、分かってきたような気もしますので
今後機会がありましたらじっくり見てみたいと思いました。

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平成24年度の西宮博物館・資料館連携講座はこれで終了です。
よく聴講することのある歴史系の講座だけでなく、美術系の講座も聞くことが出来て
むつかしくもありましたがとてもおもしろかったと思います。
新年度の予定は市政ニュースで紹介されたり郷土資料館や公民館などに
チラシが置かれたりすると思いますのでお楽しみに。
 

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