相つぐ「銅鐸」発見の中で考古学は

第7回西宮博物館・資料館連携講座 「相つぐ「銅鐸」発見の中で考古学は」
2012年12月12日(水)を聴講した感想をご紹介します。


今回の講師は辰馬考古資料館館長の水野正好氏で、連携講座では二回目の
銅鐸の話に話になります。
コピーした資料をたくさん頂いてスライドなしでの発掘の裏話や苦労話で、とても
興味深く聞きましたが、どうまとめたらいいのか悩むところです(笑)

まず銅鐸出土の最古の記録は奈良時代で、近江に崇福寺(すうふくじ)を建てるときに
出土したという記録があるそうです。
その後もいくつか記録がみられるそうですが、寺院の飾りの風鐸と言うものに似ている
という事で「宝鐸」「銅鐸」などの名前が付けられたようです。

使い方も音を鳴らすものではあるようで、外から叩くものではなくて内側に「舌(ぜつ)」を
たらして鈴のように振るか舌そのものを揺らして音を出していたらしいのです。
ただどんな時に使っていたかは分からないし、大型化するにつれて音を鳴らして出来た傷
などの痕跡もなくなり、分からないことだらけだそうです。

初めのものは小さく作られ時代が経つにつれて大型になっていった銅鐸ですが、現在
確認されている500あまりの中で最大のものは明治14年に滋賀県野洲の大岩山
偶然発見されたものです。
このときの写真やスケッチは残っていないそうですが、発見者が警察に届けた事から
発見の状況やサイズなどは詳細に記録が残っているそうです。

14個出土したうち2個は東京帝室博物館(現東京国立博物館)に所蔵され、そのひとつが
総高134.7cmの日本最大の銅鐸です。
ただ文化財保護と言う意識があまり一般的でなかった時代の事、他の12個は地元の寺など
あちこちに分けられたあと散逸し、研究者の努力で10個は所在が分かったものの2個は
いまだ行方不明だそうです。

その後、ほぼ同じ場所が名神高速や東海道新幹線の建造用土採土場となるため
文化財保護の担当として係わった水野さんが、昭和37年に銅鐸が10個出土した時の
様子を金属探知機を使って土砂の中から破片を探したなど紹介してくださいました。
また、国が所有してしまいこんでしまわないよう、滋賀県が所有して広く公開することが
できるようにとも尽力された苦労話も聞きました。

最近では昭和59年に島根県出雲の荒神谷遺跡から銅剣358本・銅鐸6個・銅矛16本が
出土、平成8年に荒神谷遺跡の近くの加茂岩倉遺跡から一ヶ所でまとまっての出土として
最大の36個の銅鐸が発見されたりしています。
この時、それまで出雲地域からはほとんど青銅製品は出土していなかったので、分布による
文化圏の研究などしていた研究者が頭を抱えて悩んで困ってたなどと裏話を聞きました。

このほか、銅鐸は入れ子になってひれを立てた状態でまとまって埋められている謎だとか、
最近では鉛同位体比法という素材の鉛の成分によって産地を判定する研究がすすんでいる
とか、同じ鋳型を使った兄弟銅鐸の分布だとか、いろいろな話を時間をオーバーして
紹介していただき、とてもおもしろかったです。

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次回は 第8回西宮博物館・資料館連携講座 「中国絵画と日本人」
2013年3月2日(土) 13:30~15:00 西宮市立郷土資料館講座室 

 

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