西宮市の市街地北西部に位置する苦楽園には、隣接する芦屋市六麓荘を含む一帯に広範囲に八十塚古墳群が広がっている。
「八十塚古墳群➡」は、古墳時代後期(6世紀後半)から飛鳥時代(7世紀半ば)まで造営された群集墳である。古墳の分布が尾根などの地形単位で区分されていて、「剣谷・苦楽園・老松・岩ヶ平・朝日ヶ平の5支群」に分類される。
またこの地域は神戸市灘区から芦屋市、西宮市の仁川右岸にいたる東西約6.5㎞に広がる「徳川大阪城東六甲採石場➡」でもある。
沢山の古墳が発掘されているが、この数にあうだけの生活の場である住居跡は見つかっていない。またこの地域の周辺、猪名川や武庫川流域に大規模集落があったが、古墳群が見つかっていない。従って、この地域は周辺地域の住民の墓地であったかも知れない。
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西宮市域における「八十塚古墳群」の調査は、1965(昭和40)年に「苦楽園支群第1・2号墳」の発掘調査を実施したことに始まる。
この古墳は発掘当初は「苦楽園五番町古墳」と呼ばれていた。苦楽園支群第1・2号墳は、無袖式の横穴式石室が同一墳丘中に2基、7世紀に構築されていた。この古墳は、先に築造された第1号墳を改造して、第2号墳の横穴式石室と墳丘を付加させていた。このような1墳丘内に2つの別々の横穴式石室が構築される例は少ない。なお、苦楽園支群第1・2号墳は発掘調査終了後、「西宮市立大社中学校に移築」されて保存されている
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1974~1977(昭和49~52)年において苦楽園支群第5・6・7号墳及び、老松支群第3号墳、剣谷支群第2号墳の学術調査を西宮市教育委員会が実施した。この調査は、開発事業による古墳の破壊を危惧し、古墳の遺存状況の確認、保存を行うことを目的として実施した。
2012(平成24)年6月3日、西宮市指定史跡「老松古墳」の史蹟整備が完了したことに
ともなう現地説明会➡があった。
老松支群第3号墳は、墳丘規模13~14mの円墳で、右片袖式の横穴式石室を埋葬施設として
いる。また、横穴式石室の床面には排水溝が構築されていた。出土遺物は、須恵器・土師器・銀環・刀子・鉄釘・石器が出土しており、6世紀後半に築造されたと考えられる。この調査成果により、昭和56年(1981)に老松支群第3号墳は「西宮市指定史跡老松古墳」となった。
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西宮市における八十塚古墳群の発掘については、「特別展示「八十塚古墳群の時代~武庫平野における群集墳の成立と展開~➡」に詳しく報告されている。
その成立と発展、終焉について以下のようにしるされている。
八十塚古墳群は、古墳時代後期後半(6世紀後半:須恵器編年TK43型式期)から朝
西宮市立郷土資料館ニュース 第49号
日ヶ丘支群より、築造され始める[森岡1979]。その後、老松支群・岩ヶ平支群・剣
谷支群、最後に苦楽園支群で造墓活動が行われ、飛鳥時代前半(7世紀前半)を
もって八十塚古墳群の造営は終了すると考えられている(図4)。芦屋市域に至って
は、西宮市域よりもやや早い時期から造墓活動を行うが、同じく飛鳥時代前半ま
で造墓活動が行われ、ほぼ同時に造営を終了する。
現在苦楽園地区に保存されているのは「西宮指定史跡老松古墳」と「苦楽園支群第1・2号墳」(現在大社中学校に移設。発掘時は苦楽園五番町古墳)程度で残りはは存在した場所が僅かにわかる程度である。
昔の写真は西宮市歴史資料チームの提供による。