苦楽園温泉と著名人・文化人

大阪の実業家・中村伊三郎が本格的に開発を行い、苦楽園ラジウム温泉の発掘に併せて共同浴場を建設したのが、苦楽園温泉の始まりと言える。
開発は明治の末期に始まり、大正から昭和の初めにかけて大変な活況を呈した。
この時代に苦楽園温泉に居宅や別荘を建てて住んだり、ホテルや旅館に滞在し、苦楽園温泉を楽しんだ有名人や文化人の主だった人達を紹介する。

中村伊三郎

まず第一に紹介すべきは大阪の実業家で苦楽園の開発者であり、命名者でもある中村伊三郎である。
中村伊三郎は大阪で中村莫大小(メリヤス)工場を営む実業家で、多方面でも色々と活躍している。苦楽園では温泉開発の他、道路拡張や上水道、電灯・電話などのインフラ整備も進めている。

この「苦楽園」という名称は、瓢箪の名前に由来している。開発者の中村伊三郎は、家宝としてある瓢箪を大切に所有していた。この瓢箪の名こそ「苦楽瓢」で、そこから苦楽園と命名したという。この瓢箪は三条実美卿や土方久元伯ゆかりのもので、文久3年(1863)の七卿落ち(尊王攘夷派の7人の公家が京都から追放され長州藩へ落ち延びた事件)の際に死を覚悟してこれで別れの杯を交わしたが、後に無事で会うことができたことから苦の後に楽ありで「苦楽瓢」と名付けられたという。

神戸っ子アーカイブ 「苦楽園の歴史 苦楽園の父、中村伊三郎の功績➡
苦楽園ラジウム温泉の共同温泉場

谷崎潤一郎

谷崎潤一郎は、1886(明治19)年、現在の東京都中央区日本橋人形町で誕生した。
1908(明治41)年 同校卒業、東京帝国大学に進み、作家活動を始めるがなかなか評価されなかった。
1911(明治44)年 7月、授業料未納により退学になる。しかし『少年』『幇間』『飈風』『秘密』等を発表し、作品が永井荷風に激賞され、文壇的地位を確立する。
1923(大正12)年 9月1日に関東大震災にあい、横浜の自宅は無事だったが類焼してしまう。震災後、京都市を経て、最初の仮の宿は「菊水」、その後「萬象館」に滞在し、毎日ラジウム温泉を楽しんだようだ。翌年には神戸市東灘区本山の方に転居している。
苦楽園当時の様子を「阪神見聞録 谷崎潤一郎」に次のように述べられている。

或る朝私が湯槽の縁にしやがみながら、湯を浴びてゐると、中に漬つてゐる二人連れの男が、つい鼻の先で、此方を無遠慮にヂロヂロ見つめては話をしてゐる。「ホレ、此の方が谷崎さんや」「ふーん、さうだつか、此れが谷崎さんだつか、偉いお方やな」と、まるで品物の値蹈みでもするやうに、人の顏を見ては感心してゐる。そのくらゐなら「あなたは谷崎さんですか」と呼びかけてくれる方がまだいいのだが、決して直接には話しかけない。何とも氣味の惡い次第であつた。
私はいつぞや上方の食ひ物のことを書いたから、今度は人間のことを書いてみた。が、斯うして見ると、人間の方はどうも食ひ物ほど上等ではないやうである。

萬象館跡

与謝野晶子

与謝野晶子は最愛は夫・鉄幹を失った翌年、1936(昭和11)年に苦楽園を訪ね、その眺望に「武庫の山君なき世にも遠かたの打出の浜の見ゆる路かな」という歌を詠んでいる。
与謝野鉄幹・晶子夫婦小林天眠との関係は深く、夫婦の長男・光に、天眠の三女・迪子が嫁いで、姻戚関係にある。1917(大正6)年に小林天眠が中村伊三郎に依頼して、その自宅「久方庵」に与謝野寛(鉄幹)、晶子、四男アウギュストの三名が滞在できるように計らったそうだ。
与謝野迪子の随筆「思い出」に苦楽園の思い出を次のように記している。

大正6年のお話ですから、今から94年も前の苦楽園です。苦楽園は大正2年ごろから中村伊三郎が開発し、関西一の別荘地になっていました。小林政治は中村伊三郎に依頼して、その自宅「久方庵」に与謝野寛、晶子、四男アウギュストの三名が約2週間、滞在できるように計らいました。

阪神電車の夙川駅で降りると、山側の方に苦楽園行きの電車が待っている。私達はその頃まだ珍しい自動車に乗って、ところどころ岩のむき出している、でこぼこ道を進んだ。木々はあまり大きくなく、五月の陽光に山道は乾いてひび割れがしていた。間もなく、六甲山の中腹にある苦楽園に着いた。数奇屋風の離れ家が景色のよい場所に点々と建っていて、その一つを与謝野家が借り受けていた。そこに集まって食事などを共にした。

阪急・阪神沿線文学散歩 「与謝野迪子「思い出➡

湯川秀樹

湯川秀樹は幼い頃から京都で暮らし、京都大学に学んでいたが、1932(昭和7)年に湯川スミと結婚し、大阪市内で病院を営んでいた湯川家の婿養子となった。そして湯川姓を名乗り、大阪市内の湯川宅で義父たちと同居するようになった。
その年の夏、義父湯川玄洋の体調のこともあり、湯川家は空気の悪い大阪から、苦楽園バス停の近く、三笑橋の近くに借家を借りて過ごすことになった。
湯川家が引っ越してきた頃の苦楽園は、行楽地としては寂れはじめていて、旅館の廃墟なども見られ、保養型郊外住宅地へと変化しつつあった。実際に空気が清涼で程良く乾燥し、日当たり良好、夏も涼しいという理想的な環境であった。
湯川博士は苦楽園口からの通勤の帰り道や休日の散歩等で歩きながら良く考えたそうで、奥様の勧めもあって「素粒子の相互作用について」という英文の論文を発表した。
これが評価されて「中間子論でノーベル物理学賞」を受賞することになった。
その記念碑が苦楽園小学校の校門を入ったところに建造されている。

湯川秀樹の家族が住んでいた苦楽園の家
若いころの湯川秀樹
苦楽園の家の玄関・三笑橋のすぐ近く

西宮市はこれを記念して「西宮湯川記念賞➡」を制定し、理論物理学における研究を奨励すべく、若手研究者の顕著な研究業績に対し贈呈している。

苦楽園小学校の正門前にある「中間子論誕生記念碑」

神戸っ子アーカイブ 2014年11月号「湯川秀樹が歩いた街「苦楽園」➡」を参照。

下村海南

下村海南は本名を下村宏といい、和歌山県出身で東京帝国大学卒業後逓信省に入省した。その後台湾省の民生長官や鉄道部長など数々の職務を歴任した。台湾総督府退任後、朝日新聞に入社し、専務・副社長を経て、貴族院議員に勅選される。寺内貫太郎内閣では国務大臣を務めるが、終戦後戦犯として逮捕されるが拘留後釈放される。
このように多彩な政治経験を有するが、他方佐々木信綱門下の歌人としても才知にあふれた人で、多彩な文化生活を送る。
海南は歌人としての名前で、佐々木信綱の「竹柏会」に所属し、多くの作品を寄せるとともに歌集を出した。
苦楽園に建てた別荘は「海南荘」と呼ばれ、文化サロンとして師の佐々木信綱を、はじめ多くの歌人を集めて交流した。
その様子は西宮ブログ「阪急沿線文学散歩 下村海南 海南荘➡」に紹介されている。

西宮ペディア下村海南(下村宏)➡」を参照。

苦楽園温泉に来た著名人

苦楽園ラジウム温泉を訪れて、温泉を楽しんだ著名人は数知れないと思われるが、残された写真から大隈重信と犬養毅夫人が入湯している。

大隈 重信」(おおくま しげのぶ)は、1838(天保9)年、佐賀藩に生まれ、幕末の志士として活躍した。明治政府が樹立後、参議、大蔵卿、内閣総理大臣、他数多くの大臣を歴任した。また早稲田大学を創設し官学に匹敵する高等教育機関を育成するために力を注いだ。
苦楽園温泉には1913(大正2)年11月に入湯している。
また同時期に犬養毅夫人も入湯している。

大正2年11月、大隈重信、苦楽園温泉に入湯
大正2年11月、犬養毅夫人、苦楽園温泉に入湯

苦楽園温泉が枯渇した後も、別荘地のような高級住宅地として、幾多の著名人や文化人が居を構えていると思われる。

昔の写真は西宮市歴史資料チームの提供による。

投稿日時 : 2023-07-11 08:28:55

更新日時 : 2024-02-29 12:17:38

この記事の著者

ライターT

西宮流(にしのみやスタイル)の中の『西宮ペディア』を主に担当しています。
西宮市の歴史や街並みに興味深々です。

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