苦楽園の変遷

苦楽園」は、大正~昭和時代初期は明礬(みようばん)温泉場や、ラジウム温泉場として栄えた町でした。1911(明治44)年に大阪の実業家 中村伊三郎氏が、この一帯30万坪程を購入して「苦楽園」の名称で町づくりを行ないました。やがて天狗獄でラジウム温泉が発見され、苦楽園四番町の三笑橋まで温泉を引いて共同浴場「苦楽園温泉」が開かれました。
関東大震災の後、谷崎潤一郎が関西で初めて身を寄せたのがこの苦楽園です。この付近の旅館「萬象館」に滞在し、ラジウム温泉三昧の日々を送ったそうです。往時の様子は、随筆『阪神見聞録』に記されています。また、湯川秀樹博士も三笑橋の近辺に昭和8~15年まで住んでいました。往時の苦楽園四番町には、黒田子爵の別邸土方伯爵の別荘「養寿庵」下村海南の海南荘、クラブ化粧品の中山太一氏の別邸であり大阪市の迎賓館だった「太陽閣」「六甲ホテル」などがひしめき合っていました。

苦楽園の古墳

西宮市の市街地北西部に位置する苦楽園は、隣接する芦屋市六麓荘を含む一帯に広範囲に八十塚古墳群が広がっている。
八十塚古墳群」は、古墳時代後期(6世紀後半)から飛鳥時代(7世紀半ば)まで造営された群集墳である。古墳の分布が尾根などの地形単位で区分されていて、「剣谷・苦楽園・老松・岩ヶ平・朝日ヶ平の5支群」に分類される。
またこの地域は神戸市灘区から芦屋市、西宮市の仁川右岸にいたる東西約6.5㎞に広がる「徳川大阪城東六甲採石場」でもある。

この記事の本文は「苦楽園の古墳➡」を参照。

苦楽園の開発と明礬谷温泉

苦楽園から隣の芦屋市にかけての山麓地帯に「八十塚古墳群」が発見されている。この付近に住居跡等の生活環境が発見されていないことから、近隣地域の墓地であったのかも知れない。
またこの辺りは徳川時代の大阪地区城石採石場が広がっているが、人里離れた山の中で狐や狸の楽園であったと思われる。
この静かな森を開発するきっかけとなったのが、「明礬谷温泉」の存在であった。大社村誌によれば、1906(明治39)年に「鳴尾村の辰馬與平氏」らが中心となり、数名の地主たちで「明礬谷保勝組合温泉浴場」が結成され、道路開削や温泉浴場の新設などをおこなった。しかし、たどり着くためには山篭に乗らねばならないなど交通機関が未発達で、折からの不況もあり来訪者は少なかった。

この記事の本文は「苦楽園の開発と明礬谷温泉」を参照。

苦楽園ラジウム温泉

明治の末期、「この付近の景色は美しい。山の上に家を建てら良い眺めであろう」と外国人が話しているのを聞いて、本格的な開発を思い立ったのが、大阪の実業家「中村伊三郎」で、私財を投げうってインフラ投資を行ったと言われている。
その数年前、鳴尾村の「辰馬與平」ら数名の地主たちで「明礬谷保勝組合温泉浴場」が道路開削や温泉浴場の新設などをおこなった。しかし、たどり着くためには交通機関が未発達で、折からの不況もあり来訪者は少なかった。
その頃、「兵庫県知事の服部一三」が技師を派遣し、天狗嶽といわれる地点で「ラジウム温泉源」を発見した。ここから管を引いて「共同浴場」を開設したのが発展の起爆剤となった。開発を手がけてから5年を経て、1914(大正3)年に苦楽園は山開きをおこなった。

この記事の本文は「苦楽園ラジウム温泉」を参照。

苦楽園温泉と著名人・文化人

大阪の実業家・中村伊三郎が本格的に開発を行い、苦楽園ラジウム温泉の発掘に併せて共同浴場を建設したのが、苦楽園温泉の始まりと言える。
開発は明治の末期に始まり、大正から昭和の初めにかけて大変な活況を呈した。
この時代に苦楽園温泉に居宅や別荘を建てて住んだり、ホテルや旅館に滞在し、苦楽園温泉を楽しんだ有名人や文化人の主だった人達を紹介する。

この記事の本文は「苦楽園温泉と著名人・文化人」を参照。

苦楽園の小・中・高校

瀬戸内から遠く紀州まで望めるこの地は、古代の豪族にとっても永眠に恰好の地であったのか、八十塚」と呼ばれるほど古墳が多くあった➡。
明治末期にはラジウム温泉➡が発掘され、共同温泉場や旅館・ホテルや著名人の別荘があちこちに点在し、地上の楽園かと思われる繁栄振りであった。
しかし1938(昭和13)年の阪神風水害で鉱泉も枯れ、再び森の中の住居が点在する静かな住宅地となった。
戦後交通の便が良くなるにつれて、町内に小・中・高校を抱える大住宅地になる一方で、古い家屋が取り壊されて新しい家が建ち、隣の芦屋六麓荘と並んで高級住宅街となっている。

この記事の本文は「苦楽園の小・中・高校」を参照。

黒川古文化研究所

苦楽園中学校の北側の道を登っていくと、閑静な住宅が点在する中に黒川古文化研究所がある。
1950(昭和25)年10月、黒川家三代当主、黒川幸七とその妻イクが所蔵の文化財、土地建物、基本金とともに寄付し、財団法人・黒川古文化研究所を設立した。
当初は兵庫県芦屋市打出春日町にあったが、1974(昭和49)年11月に、排気ガス等の環境汚染が文化財に良くないと考え、大阪湾を一望できる西宮市苦楽園の高台(現在地)に移転した。

この記事の本文は「黒川古文化研究所」を参照。

堀江オルゴール博博物館

財団法人として1993年に苦楽園四番町に開館した。
クラブ化粧品の中山太一氏が建てた太閤閣(大阪市の迎賓館としても使われていた)の跡地を購入し大江宏氏の設計の住宅は、昭和62年に兵庫住宅100選にも選ばれている。
現在は、博物館の一部としても使われている。
博物館には、故堀江光男前理長が70歳を過ぎたころから世界を周り収集したアンティークオルゴールが収蔵さている。
ロシアのロマノフ王朝の最後の皇帝であったニコライ2世愛用のシリンダーオルゴールや、アレクサンドラ皇后のディスクオルゴール、ドイツの城で使用されていたという自動演奏楽器「3台バイオリン」など貴重な物が多い。

この記事の本文は「堀江オルゴール博博物館」を参照。

苦楽園の現在

坂の街、苦楽園は山裾に広がる傾斜地にある。それだけでなく、下記の地形図にあるように、小さな隆起が多数あり、複雑な地形となっている。
この地に明治の終わりにラジウム温泉が開発され、あちこちに旅館やホテル、別荘等が建てられ、たいそう賑わった。
その後大雨による風水害により、温泉の枯渇や景気の悪化、戦争の影響等により、再び静寂な森に戻った。
しかし、戦後の経済復活と好景気を迎え、別荘地として文化人や有名人が居を構え、眺望の良いことも好条件となり、高級住宅街として復活し、人気の街となっている。

この記事の本文は「苦楽園の現在」を参照。

投稿日時 : 2023-07-25 22:01:15

更新日時 : 2023-07-25 22:01:16

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西宮流(にしのみやスタイル)の中の『西宮ペディア』を主に担当しています。
西宮市の歴史や街並みに興味深々です。

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