明治の末期、「この付近の景色は美しい。山の上に家を建てら良い眺めであろう」と外国人が話しているのを聞いて、本格的な開発を思い立ったのが、大阪の実業家「中村伊三郎」で、私財を投げうってインフラ投資を行ったと言われている。
その数年前、鳴尾村の「辰馬與平」ら数名の地主たちで「明礬谷保勝組合温泉浴場」が道路開削や温泉浴場の新設などをおこなった。しかし、たどり着くためには交通機関が未発達で、折からの不況もあり来訪者は少なかった。
同じ頃、「兵庫県知事の服部一三」が技師を派遣し、天狗嶽といわれる地点で「ラジウム温泉源」を発見した。ここから管を引いて「共同浴場」を開設したのが発展の起爆剤となった。開発を手がけてから5年を経て、1914(大正3)年に苦楽園は山開きをおこなった。
大正初期の苦楽園は、当時の地図を眺めてみると邸宅のみならず、三笑橋を中心に東には共同浴場とその隣に長春楼、北には大観楼と松雲楼、西から南にかけては萬象館、六甲ホテルなど旅館やホテルが建ち並び、山上プールや運動場まで揃う「総合温泉リゾート地」であったことが読み取れる。
下記は当時この土地を販売するためのパンフレットに示された案内図である。
六甲三楽園住宅経営地の下部に苦楽園温泉の配置がわかる図が示されている。
苦楽園温泉の当時を偲ぶ写真の幾つかを掲載。
近くの有馬温泉は当初は幾つかの湯治宿が並んでいたようであるが、苦楽園ラジウム温泉は四国の道後温泉のような共同温泉利用だったと思われる。
谷崎潤一郎が関東大震災から逃れて、関西居住最初の仮の宿は「菊水」、その後「萬象館」に滞在していた。そしてラジウム温泉を楽しんだようだ。
青空文庫作成ファイルの「阪神見聞録 谷崎潤一郎」によると、毎朝通っていた温泉入浴時のエピソード書いているが、温泉は好きだが、関西人はどうも苦手だったようだ。
「六甲ホテル」では毎週西洋料理の講習会が開催されて阪神沿線の夫人令嬢が集うなど、社交場としても大きな役割を果たしたようだ。
六甲ホテルについては、与謝野迪子著「思い出」に山田耕筰が宿泊していた時のことが書かれていたり、湯川秀樹も「旅人」では「苦楽園ホテル」と呼び、昭和8年の様子を述べているようだ。(参考:阪急・阪神沿線文学散歩「思い出」「旅人」)
下村海南については南野武衛著「西宮文学風土記」に詳しく述べられています。本名宏、朝日新聞副社長、終戦時の国務省件情報局総裁として詔勅発表の大任を果たした人、終戦秘話の作者、貴族院議員、佐々木信綱門下の歌人など歴任し才知に溢れた人でした。国政に対する影響力を持ちながら、多彩な文化生活いわばサロンをこの地に開いた人として紹介されています。師の佐々木信綱をはじめ、川田順、中村憲吉、岡本かの子、九条武子ら多くの歌人が海南荘を訪れたそうです。
西宮ブログ「阪急沿線文学散歩 下村海南 海南荘」より
この頃、客を運んだ人力車は18台、乗合馬車も18台あり、香櫨園から苦楽園まで、ラッパの音を響かせて夙川の堤防沿いを行き交ったという。大正6年(1917〕にはタクシーも登場した。
大変繁栄していた苦楽園温泉は、残念ながら1938(昭和13)年7月3~5日にかけて、台風に刺激された梅雨前線による集中豪雨で甚大な被害を受けた。
死者616名、被害家屋は約9万戸に達する大被害で、この時に苦楽園ラジウム温泉も泉源が破壊され、枯渇してしまった。
その後も世の中の恐慌のあおりを受けたり、戦争に突入する等により、旅館やホテルも廃業に追い込まれてしまった。
苦楽園は戦後の景気上昇とともに環境の良さから住宅地として開発され、多くの著名人が住むようになった。
説明文作成は主として「苦楽園の歴史 ー 2014年11月号|神戸っ子アーカイブ」を参考にした。
昔の写真は西宮市歴史資料チームの提供による。