鳴尾公民館講座 2015年8月10日(月)開催
西宮モダニズム 枝川・申川 -甲子園に消えたふるさとの川-
講師は武庫川女子大学の水野優子さんで、武庫川支流にあった川の話を
聞きましたので、簡単にまとめてみます。
古代から暴れ川だった武庫川はたびたび洪水をおこし流れを変え
室町時代の弘治3(1557)年の水害で枝川が分流、江戸時代の元文5(1740)年の
水害で申川が分流したといわれています。
明治時代になっても川の整備はまだ江戸時代からの「河川舟運(かせんしゅううん)」
として運搬に利用するための利水工事のほうが主なものだったそうです。
それが明治後期ごろからは、鉄道網の発達により物資運搬や人の移動が陸路が
中心になってきたり、河川法が調えられたり工事技術が上がったりしたこともあり
大規模な治水工事が盛んになってきました。
そこで武庫川一帯も工事計画が上がるのですが兵庫県の堤防嵩置腹付工事は
なかなかすすまず、地元鳴尾村の武庫川改修調査委員会の計画や西宮町の
改修計画も考えられるもうまくいかない中で、やっと県の武庫川改修工事が
決定したのが大正9(1920)年でした。
この時に武庫川の堤防工事と枝川・申川の廃川工事がすすみ、大正12(1923)年に
枝川樋門で水を止め枝川と申川がなくなり、新しくできた土地を河川工事費プラス
阪神国道(現国道二号線)建設費上乗せの410万円で阪神電鉄が購入しました。
阪神間の川は六甲山から海までの短い距離を急に流れることで、川底が浅くなり
治水のために堤防を高くすることでまた川底が上がってくるという天上川が多く、
神戸の生田川や湊川も明治時代に付け替えられていて、跡地はフラワーロードや
新開地となって発展しているという紹介がありました。
枝川も天井川だったので、河口付近のみは一部埋め立て工事をしたそうですが
ほとんどの範囲は土手を切り崩す整地が行われたそうで、阪神甲子園駅の南の
松林あたりや北郷公園の小山などがまわりより高くなっていた土手の名残として
今に残っています。
そして阪神電車はレジャー施設や住宅地経営など様々な事業に取り組み、大阪と
神戸の間のこの地域は賑わったそうです。