高校野球100年・鳴尾球場

1915(大正4)年に始まった全国中等学校優勝野球大会ですが、開催地の豊中運動場は
収容人数500人ほどなのに6日間で5000人ほどの集客があり大人気となりました。
翌年の第2回大会も予選参加校数も観客も増えますます盛り上がりを見せたために
会場が手狭になり、1917(大正6)年第3回大会から鳴尾運動場での開催となりました。

鳴尾運動場とはもともと1907(明治40)年に完成した関西競馬場(後の鳴尾競馬場)の
なかに、陸上競技用トラックやテニスコート、野球場は二つも作ったものです
(競馬場は後にできる甲子園球場の4倍ほども広さがあったので)。

121208CIMG1280t

これは競馬場所有者の阪神競馬倶楽部が経営悪化の収入減を補うため阪神電鉄
(1905(明治38)年開業)に施設を貸し出すことになり、借り受けた阪神電鉄が
大阪朝日新聞社に催し物の依頼をしたときにちょうど豊中運動場の狭さに困って
いたので鳴尾競馬場にあたらしく野球場を作ろうとことになりました。

二つの野球場で5000人ほどを収容できましたが学生野球人気はますます高まり、
1923(大正12)年の第9回大会の地元甲陽中学と立命館中学の準決勝の試合では
超満員の観客が簡易な柵を乗り越えてグラウンド内になだれ込んだため、試合の
続行が不可能になるといった問題も起きました。

そこでもっと大きな本格的な野球場をと考えていた阪神電鉄がわずか五か月の
工事で1924(大正13)年7月31日に完成させた60000人収容の甲子園大運動場で
8月13日から第10回全国中等学校優勝野球大会を開催し、大きすぎたかとの
心配をよそに、3日目の試合で大阪の市岡中学の出場により近隣からの観客が
集まり無事満員になりました。

甲子園150629CIMG3650x 150629CIMG3651

スポーツイベントや飛行大会など様々な催し物で賑わいを見せた鳴尾競馬場は
1937年(昭和12)年に阪神競馬場と名を変えた後も競馬を続けていましたが、
太平洋戦争がはじまり1943(昭和18)年には閉鎖し川西航空機の試験飛行場として
場所を明け渡しました。
戦後になって武庫川女子大学(1935(昭和10)年改修の鳴尾競馬場のスタンドの一部が
キャンパスとして現存)や浜甲子園団地が建てられ球場の名残はまったくありません。

というわけで、1993(平成5)年に建てられた鳴尾球場跡地の記念碑(一枚目写真の
現在地)は鳴尾球場の場所よりも南になります。
この写真の地図は銅像の前に設置されているものですが、先日確認に行った時には
ガラス面がヒビだらけでまったく分からなくなっていたので、数年前に撮った
写真をもとに書いています。
今年は高校野球100年記念としてここも見に来る人もいるかなと思うのですが、
ちょっと残念な状態ですね。

CIMG3895x CIMG3899x

またもともと日清日露戦争後に軍馬改良の必要性から設立された競馬場の機能は
阪神競馬場閉鎖後も引き継がれていて、武庫郡良元村(現宝塚市小林)へ移転したのち
1949(昭和24)年に仁川へ移転し現在の阪神競馬場となっています。

ちなみに、電車(駅)と関係のある野球場は以下のようになります。
 阪神鳴尾駅開業           1905(明治38)年4月
 阪神香櫨園駅開業         1907(明治40)年4月 
香櫨園運動場(阪神香櫨園駅南)  1910(明治43)~1913(大正2)
 阪急宝塚駅開業          1910(明治43)年3月
 阪急豊中駅開業          1913(大正2)年10月
豊中運動場(阪急豊中駅西)    1913(大正2)~1922(大正11)
鳴尾球場(阪神甲子園駅南)    1916(大正5)~1924(大正13)
 阪急西宮北口駅開業       1920(大正9)年7月
宝塚運動場(阪急宝塚駅東)    1922(大正11)~1960(昭和35)頃
甲子園球場(阪神甲子園駅南)   1924(大正13)~ 稼働中
 阪神甲子園駅臨時開業      1924(大正13)年8月
西宮球場(阪急西宮北口駅南)   1937(昭和12)~2002(平成16)

 

参考文献:
『鳴尾村誌』(2005年 西宮市鳴尾区有財産管理委員会発行)
『日本鉄道旅行地図帳』9号・関西2(2009年 新潮社発行)

 

タイトルとURLをコピーしました