百姓逃散

第34回特集展示 「百姓逃散―江戸時代の百姓ストライキ―」
2011年4月26日(火)~7月10日(日)  西宮市立郷土資料館

6月15日(水)の歴史講座を聴講して展示を見た感想ご紹介します。

逃散(ちょうさん)とはあまり聞きなれない言葉ですがいわゆる一揆の形態の一つで、百姓達が
武装蜂起するのではなく、申し合わせた上で耕作を放棄し一斉に村を出てゆく行動をさします。

西宮市立郷土資料館 nishinomiya 

今回の展示は、元文3(1738)年7月におきた旗本青山氏領百姓逃散事件に関する資料。

江戸時代中頃の享保年間(1715~35年頃)には旱魃や水害や蝗害(イナゴの発生)など
度重なる自然災害が発生し農村は疲弊していたが、旗本青山氏領の代官安東茂右衛門は
数年にわたり厳しい年貢の取立てを続けた。

期日までに納められなければ家屋敷田畑を捨てて村を出て行けとまで言われてとうとう
耐えられなくなった村人達は相談の上で村を出て縁故を頼って近隣の村へ身を寄せ、
悪政を訴えるため大阪町奉行所にも訴状を投げ込んだ。

このとき逃散したのは旗本青山氏領で代官安東茂右衛門が治めていたうちの一部の村
下大市村・下(久右衛門)新田・中村と、現在の尼崎市の次屋村・浜村・水堂村の6か村。

8月には幕府の吟味の結果、代官安東茂右衛門は追放、領主青山氏は拝謁停止。
農民側は首謀者の下大市村庄屋が遠島、他の庄屋が重追放、他29人が過料(罰金)で、
農民側の刑が不当に重かった。

かされんばん

以上が今まで一般的に言われている元文3年の逃散事件ですが、今回の講座では
訴状の内容を詳しく説明いただき、まず農民側の主張を理解しました。

代官安東茂右衛門は耕作していない荒地にまでも高い税率で課税する、領主青山氏から
百姓達への飢饉のお救い米をいただいたのにそれさえも返納するようにという、
部下の役人が村に来たときの食事が粗末だったと罰する、米を換金するときのレートを
農民に不利な設定にする、等々。
農民側の訴状の控えが残っているだけなので、もちろん自分達に不利なことは
書いてないでしょうが、これを見る限りなかなかの悪代官ぶりのようです。

一方、安東の言い分はまったく残っていないのですが、追放というのは武士の身分を
剥奪することなので、けっして軽い罰ではなかったそうです。

今回の展示の逃散は西宮の農民の反乱の最大の事件で、また、この事件の判決が
この寛保2(1742)年制定の公事方御定書(幕府の基本法典)の中に、逃散に関して
初めて決められた罰則の基準とされたそうです。

   にしのみや

寛永13(1635)年に青山幸成が尼崎藩主となり、武庫川西側の新田開発がすすむ
寛永20(1643)年に長男の幸利が藩主を継ぐ
          このとき幸利の弟3人を分家として所領を分割し旗本領が出来る
正徳元(1711)年からは尼崎藩主は松平氏にかわる
享保17(1732)年の享保大飢饉をはじめ自然災害によって村々は疲弊
享保18(1733)年に青山氏分家の一つ幸通系青山氏領に代官安東茂右衛門が着任
元文3(1738)年に代官安東の悪政により幸通系青山氏領の一部で逃散事件発生
寛保2(1742)年に幕府の法律の公事方御定書に逃散の刑罰が定められる

旗本青山氏領地と聞いて尼崎藩主の青山氏と同じなのか違うのかよく分からなくなったので
調べてみると、分家して阪神間の領地を細かく分けて所有していたのですね。
そのため江戸時代中頃には村ごとにまたは同じ村の中でさえも天領・藩領・旗本領などと
領主が違っている事もありとても入り組んでいたようで、だから今でも西宮・尼崎・伊丹・
芦屋に尼崎藩領界碑といわれる石碑が残っているのだなと納得しました。

   おかたじんじゃ  つとじんじゃ  

このような大きな事件が西宮であったということですが、私は今までほとんど知らなかったので
展示と歴史講座での説明はとても興味深く勉強になりました。
また、歴史の教科書で見た傘連判(からかされんぱん)というものは、首謀者を隠す目的のため
だけでなく一致団結するときに用いられる方法だそうで、ヨーロッパや朝鮮半島でも同じような
署名の方法があると聞き、そのことにも興味がわきました。  
                                               

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