甲陽園の今

甲陽園の開発は1918(大正7)年に始まり、まだわずか100年ちょっとしか経っていない。
しかし、現在の甲陽園を歩いても昔の面影はどこにも見当たらない。
その痕跡を求めて、甲陽園を気の向くまま歩いてみた。
これまで紹介した旧甲陽園に関することは出来るだけ重複を避けて、現在の甲陽園を紹介する。

現在の甲陽園の全景を以下の写真で見ると、緑が少なくなり、斜面の殆どが家で埋め尽くされているように見える。

五月山方面から見た甲陽園・目神山の全景

甲陽公園開発初期の甲山山麓にある目神山には全く家は見当たらず、岩がごろごろしている山林が見えるだけの状態であった。

甲陽公園開発始め頃の目神山全景

甲陽園は南は甲陽園駅の近くにある「大池」から、北は甲山山麓の「目神山」までの間に広がっている。
大池はその半分が埋め立てられて、現在は埋め立てられた土地は「甲陽園小学校」になっている。

甲陽公園開発当初の大池から甲山を望む

現在の大池は約半分になっているが、周辺に遊歩道が造られており、夏に涼しい風が通る二軒の東屋が造られ、蓮の花やノウゼンカズラの花も見られる。
池の南側の遊歩道にはラクショウの並木があり、春から夏にかけては緑色の木陰を造り、秋には紅葉した姿が見られる。また根元には珍しい気根の林も見られる。

大池から甲山方面を望む
涼しい風が吹く大池の東屋
大池南側のラクショウの並木と気根
大池には蓮の群生があり季節には花が見られる
夏には綺麗なノウゼンカズラの花も見られる

大正末期から昭和の初めにかけて、盛況を博した甲陽公園も昭和10年代終わりには不況の波にあおられて、だんだん衰えていき、戦争に突入するに従って姿を消してしまった。
終戦後、景気の回復と共に、阪神間の中間にあるこの地域は通勤に便利で、環境も良いことから住宅地として再開発され、現在では阪神間でも人気の高級住宅街となっている。

昭和27年頃の甲陽園駅周辺。まだあちこちに空地が目立つ
甲陽遊園地西入口に近接する甲陽園駅
現在の甲陽園駅付近
料理旅館や料亭が並んでいた子孫が池周辺
右に料亭子孫、その奥は子孫が池があった場所

1917年の甲陽土地株式会社による、御手洗川沿いの道路開発や、1923年の阪急甲陽線開通による甲陽園駅の設置等により、利便性が高まり、甲陽園付近は次第に住宅地として開発され、駅周辺には飲食店、銀行、パン屋、ケーキ屋等が立ち並び、商業地区が形成されるとともに、阪神間の田園都市が形成されてきた。
しかし、1940年代になっても目神山地区はまだ山地の姿のままであり、神呪寺に詣でる旧大師道には峠の茶屋がある程度であった。

旧甲陽公園東入口付近から見た甲山・目神山方面

目神山地区は北山貯水池の南に広がる山麓の斜面にあり、その高低差は145mにもなり、急峻で随所に花崗岩の巨石も見られる。晴れた日には大阪湾が一望でき、素晴らしい眺望が開けている。
1956年には全域が瀬戸内国立公園に編入され、開発がむずかしくなったが、1958年に大阪住宅建設協会がこの地域を買収し、分譲を開始した。1961年に土地区画整理組合の事業に引き継ぐことを前提に、甲陽園土地造成組合を結成し、道路等の公共施設の整備を行い、1966年に第一次土地区画整理事業が認可された。続いて1968年、1977年に第二次、第三次の区画整理事業が認められ、開発が進められた。

北山貯水池から見た目神山地区の緑の中の街並み
第一次~第三次にわたる甲陽園土地区画整理事業区域

目神山地区の街づくりで特筆すべきは、建築家「石井修氏」の12番坂での街並み開発がある。1975~1988年にかけて行われた街並み造りであり、次のような言葉を投稿している。

石井氏は地元で発行された雑誌の一端に「家づくりは、形づくりでなく、住む場をつ
くるという意識を大切にしています。だからまず緑があって、気持ちがいい場所ができてそれが建築というものになって行く
」という言葉を投稿されている。12 番坂に残された石井氏の住宅群は、目神山の地形、植生、水、風,石を生かした目神山の自然に溶け込んだ邸になっている。

第 12 回住まいのまちなみ優秀賞
甲陽園目神山地区まちづくり協議会
1/7
歴史とまちづくり活動の経緯 
12番坂の街並み、通りから直接家屋は見えないようになっている
12番坂の始まり
12番坂にはメルヘンチックな住宅の並ぶ地区もある
地域内にはあちこちに巨石も残されている
12番坂を下り切った所にある川。せせらぎの音が涼やか

目神山地区の道路は、元の地形に沿っているため、曲がりくねったアップダウンの厳しい道路が多くなっている。

目神山地区の道路案内図
やまびこ中央通りの街並み
谷底に落ちるような二番坂

目神山地区を歩くと、町のあちこちに「甲陽園目神山 まちづくり憲章」が掲げられている。

六甲⼭麓の南東斜⾯に位置する甲陽園⽬神⼭地区は、地権者ら⾃らが甲陽園⼟地区画整理組合(1961-88 年)を結成して、賦課⾦⽅式による道路や区画の整備を⾏い、現在の⾃然の地形を⽣かした⽬神⼭特有のまちなみが形成された。2000 年にみどり豊かな住環境を将来にわたって維持・継承していくために甲陽園⽬神⼭地区まちづくり協議会が発足し、⻄宮市との協働により、⻄宮市の条例として、用途指定や建物敷地の最低⾯積などを定めた「甲陽園⽬神⼭地区地区計画」(2003 年)及び間⼝緑視率などを定めた「甲陽園⽬神⼭地区景観重点地区」(2011 年)が制定されたほか、2008 年には、⽬神⼭のまちなみの形成・維持のための住⺠の合意基準「甲陽園⽬神⼭地区みどりのガイドライン」が導入された。これらの経緯をもとに、住⺠及び地権者、事業者がそれぞれの⽴場において⽬神⼭の住環境を維持・継承していくことの趣旨と⽬的を⼗分に理解し、協議を⾏うため「⻄宮市まちなみまちづくり基本条例」(2019 年)に基づき「甲陽園⽬神⼭地区まちづくり協定」を定めた。

西宮市 甲陽園目神山地区まちづくり協定 前文より
目神山地区のあちこちに掲げられている「甲陽園目神山まちづくり憲章」

甲陽園西山町に今は使用されていないと思われる、浄水場跡がある。
西宮市上下水道局が管理している「甲陽配水所」という表示が門扉の横に掲げられている。
現在は地下のタンクに貯水し、上水道の配水を行っているそうだ。

閉鎖された門扉のある西宮市上下水道局・甲陽配水所
昔の浄水場プールか?
浄水場跡には草が茂っている

アンネのバラ教会」は、甲陽園駅の北、甲陽園西山町の階段を上がった、急な坂の曲がり角にある。教会の設立のきっかけは次のように紹介されている。

アンネは、その日記の中に「私は世界と人類のために働きます」と書き残しました。
アンネのバラの教会は、彼女の残した平和への願いが、多くの若い人たちに受けつがれていくように、アンネ生誕50周年の1979年に建設が始まり、翌1980年4月に献堂されました。アンネの父オットー・フランク氏との出会いが、この教会設立のきっかけとなりました。

アンネのバラの教会 HP
急な斜面の曲がり角に立つアンネのバラ教会
アンネの銅像
教会庭園のバラ

ニテコ池北東の「震災記念碑公園」に造られた「火垂るの墓記念碑」に、アンネのバラ教会から寄贈されたバラが移植されている。

震災記念碑公園の火垂るの墓記念碑に移植されているアンネのバラ

記事作成には主に次の資料を参考にした。
 ・第 12 回住まいのまちなみ優秀賞 甲陽園目神山地区まちづくり協議会 1/7 歴史とまちづくり活動の経緯 
 ・西宮市 甲陽園目神山地区まちづくり協定 前文
 ・アンネのバラの教会 HP

昔の写真は西宮市歴史資料チームの提供による。

投稿日時 : 2023-10-02 15:13:08

この記事の著者

ライターT

西宮流(にしのみやスタイル)の中の『西宮ペディア』を主に担当しています。
西宮市の歴史や街並みに興味深々です。

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