1918年(大正7年)に、それまで山林であった甲陽園地域を開発するために、「甲陽土地株式会社」が設立され、その責任者が「本庄京三郎氏」であった。
この写真の特徴ある建物が甲陽土地株式会社の事務所であり、その横にあったのが喫茶「カフェ・パウリスタ」であった。
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この特徴のある甲陽土地の建物は、阪急甲陽線甲陽園駅から東に延びる駅前通りと、当時甲陽遊園地の東入口があった子孫池(現在はなくなっている)の西を南北に通る道路の交点にあり、甲陽公園の中心位置であった。
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当時この事務所の前は、遊園地に行く人や料亭・旅館等を訪れる人達で非常に賑わっていた。
白亜の殿堂と言われた、少女歌劇や東亜キネマ撮影所とスタジオが近くにあり、映画関係者や俳優、財界人や著名人の多くの人たちが、事務所に併設されていた喫茶店「カフェ・パウリスタ」を利用していた。
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ブラジル移民の父と言われた「水野龍氏」が明治の終わりごろに、東京でブラジル珈琲発売所「カフェパウリスタ」を設立した。その後、本庄氏が系列会社として「大阪カフェパウリスタ」を設立し甲陽園店がここにでき、コーヒー文化を伝えた。
※カフェー(cafe)はポルトガル語でコーヒー、パウリスタ(Paulista) はサンパウロっ子の意味。(「一日限りのカフェパウリスタとして公開」より)
1923(大正12)年に発生した関東大震災により大打撃を受けた関東から、多くの映画関係者が関西に逃れてきた。
甲陽園の東亜キネマ撮影所にも牧野省三を始め、多くの映画関係者が移ってきた。
その頃の思い出として、カフェ・パウリスタの二番テーブルのお話に記されている。
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甲陽公園開園当初に建設され唯一残っていた洋館、甲陽土地株式会社事務所兼カフエー・パウリスタが取り壊されることになり、平成28年9月3日、一日だけ「カフェ・パウリスタ」が復活しました。新聞報道もあって、当日は午後4時から8時までの僅かな時間に800人ほどが訪れました。これほどの人出ではなかったでしょうが、かつての撮影所周辺も多くの人が訪れ、いこい、語り合ったことを彷彿とさせるイベントでした。
【甲陽園】華やぐ映画撮影所 西宮市HP更新日:2022年1月25日
甲陽園の地から大正時代の建物はすべてなくなりましたが、パウリスタ時代からのステンドグラス、シャンデリア、階段の親柱は「海外移住と文化の交流センター(神戸市)」で保存されることになりました。
ページ番号:78291918 より
2016(平成28)年9月3日、甲陽土地から個人所有となっていた、この建物が取り壊されることになり、「一日だけのカフェ・パウリスタ」が開催された。
当日はわずか4時間だけの開催であったが、多数のパウリスタを懐かしむ人々が行列をつくり、内部は多くの人たちで一杯となった。
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会場に紹介された、甲陽園開発の父とも言える本庄京三郎氏を簡単に紹介する掲示が行われていた。
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2005(平成17)年にはり半がなくなり、2016(平成28)年に旧甲陽園の最後の建物である、甲陽土地建物・カフェ・パウリスタがなくなった結果、1918(大正7)年に開発が始まった旧甲陽園は、わずか100年足らずでその面影を完全に消滅することとなった。
残念ながら、今住宅地となっている甲陽園を歩いても甲陽公園や甲陽遊園地の面影を探すことは出来ない。
甲陽園に関する詳しい資料が少なく、主に西宮市が発行している次の記事を参照した。
【甲陽園】甲陽園の開発 甲陽公園(大正7年5月)
【甲陽園】華やぐ映画撮影所
また、昔の写真は西宮市歴史資料チームの提供による。