江戸時代の初期は酒は樽に詰められ、上方から馬の背に左右一樽づつ乗せられて運ばれた。
元和5年(1619)には、堺の商人が回送した廻船に、木綿、油、綿、酢、醤油等の日常生活用品に混ざって酒も積み込まれた。これが廻船による江戸積「下り酒」の最初である。上方・江戸間を往復する特権をもった廻船を、「菱垣廻船」と呼んだ。所要日数は風に左右されたものの、おおむね3週間であった。
江戸時代に入ると500石以上の船の建造は禁じられていた。しかし、国内物流の大型化は進行し、1000石を超える船も生まれた。
大阪と江戸を結ぶ航路のために生まれたのが「菱垣廻船」である。舷側を高くする構造物が菱形になっていることから菱垣廻船と呼ばれたが、江戸十組問屋所属の廻船であることを示すものだった。
「菱垣廻船」は元和5年(1619)に泉州堺の船問屋が、大阪から木綿・油・綿・酒・酢・醤油などの商品を積んで江戸に送ったのが始まりで、その後廻船の定期就航が行われるようになった。
西宮地区では西宮港と今津港が江戸送りの商品の出港地として活用され、拡大と定期廻船の確保上、港の整備が行われた。
西宮港では當舎屋金兵衛による「築堤の構築」により、土砂の流入防止や荒波による荒廃を防止するための改善が図られた。
今津港では出入港する船や沖を通る船の安全のために、大関酒造による「今津灯台」が設置された。
江戸時代以前の日本は自給自足経済が主体であったが、江戸という巨大都市が誕生したことにより、生産と消費が分離された社会への転換が始まった。
比較的豊かな西の物産を大阪へ集中させ、大阪から江戸への大量輸送が活発になった。
江戸時代の酒造りは、幕府や各藩による許可制であった。酒造量(酒造米の石高で表す)を示した許可証「酒造株」をもった酒蔵だけが酒を造ることができた。また、江戸へ酒を出荷する「江戸積酒造家」は、主に西宮をふくむ摂泉12郷および尾張の酒造家であった。
「宮水庭園」中程に庭園の模様の説明が掲示されている。これは西宮における酒の流れを示すもので、酒米・酒造り技術・宮水が六甲山方面から集められ西宮地区で酒造りが行われる。出来た酒は吉野杉の樽に詰められ、船で紀伊水道を通って江戸に送られることを示している。
正保年間(1644~47)に、この菱垣廻船の中から、酒を主体に運ぶ「小早」という廻船が現れ、後に「樽廻船」と呼ばれるようになる。樽廻船では船荷がほとんど酒樽だけであるため、荷の積み込み・輸送それぞれの時間を大幅に短縮できた。船積みを短縮するために、酒樽は4斗樽に統一される等の工夫を行われ、出荷競争が激しくなり、やがて「新酒番船競争」が行われるようになった。
江戸時代最も大量の酒が入ってきたのは1800年代で、実に180万樽と言われている。仮に人口を100万人とすると、一人当たり年間4斗樽で1.8樽となる。この中で一部の老人や女性・子供は飲まないとすると、飲酒者一人当たり毎日3合を欠かさずに飲んでいたことになる。
このうちの7割~9割は、灘や伊丹・西宮からの「下り酒」であった。