甲東園の開発

西宮市は1963(昭和38)年、風光の維持、環境の保全・浄化、文教の振興を図り、当市にふさわしい都市開発を行い、もって市民の福祉を増進するため、西宮市を「文教住宅都市」と定め、こんごの市政運営がこの理念に基づいて強く推進されるものであることを宣言する。 として「文教住宅都市宣言」を行った。
この理念と最も一致する地域が、上ヶ原・甲東園であると言える。
この中心となっている甲東園地域はどのようにして開発されたのだろうか?
西宮七園の一つである甲東園の開発の概要を調べてみた。

甲山を背景に学園花通りの桜並木の向こうに関学のシンボル・時計台が見える

この地域は西宮市に合併される前は、武庫郡甲東村と呼ばれていて、武庫川と仁川に接し、西は瓦木村と隣接していた。

武庫郡甲東村全図(西宮市歴史資料チーム提供)
甲東農園を中心とした甲東園の地図

甲東園の開発は、1884(明治17)年に、芝川家2代目当主「芝川又右衛門氏」が抵当流れになった約10万坪の土地を購入したことに始まる。
その殆どが田畑であったが、年貢も納められないような「貧弱至極な土地」であった。
調査の結果水田にも畑作にも適さない土地であることが解り、1896(明治29)年に果樹園にすることにした。果樹園には、蜜柑や葡萄のほか、桃、林檎、梨、レモンなど様々な果樹が植えらた。また明治31年には、樅、栂、槇、桜、梅、サツキ、クチナシなど果樹以外の樹木を購入し、植え付けた。1900(明治33)年にこの果樹園を「甲東園」と命名した。
現在その一部は「甲東梅林」として残されている。
 参考資料:甲東園と芝川家2 果樹園の開設

甲東梅林と甲東公民館(昭和63年・西宮市歴史資料チーム提供)

果樹園「甲東園」開設後の1911(明治44)年、果樹園に隣接して芝川又右衛門氏の別邸を、「関西建築界の父」といわれる建築家の武田五一氏設計により建設した。

建設当時の芝川又右エ門邸・甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設より

この建物は、阪神淡路大震災で半壊となり、住み続けることが難しくなり、当時の芝川家の当主芝川又彦氏(芝川又右衛門氏の孫になる)により、明治村に寄贈され移築された。
明治村ではガイドの説明の下、建物内部も見学することが出来る。
参考資料:甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設

明治村に移築された芝川又右衛門邸・甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設より

甲東園へのアクセスは、当初現JR西宮駅からで、利便性は良くなかった。
1920(大正9)年に現阪急電鉄神戸線が開通し、翌1921に現阪急電鉄今津線が開通した。
開通当時、甲東園に隣接する駅がなかった。甲東園近くに駅を設置するあために阪急電鉄と交渉し、土地1万坪と現金5000円を提供することにより、1922年に「甲東園前停車場」が開設された。その後駅名が「甲東園」に変更され現在に至っている。
参考資料:甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設

開設された「甲東園前停車場」・甲東園と芝川家6 阪急電鉄の開通より

神戸市灘区・原田の森(王子動物園周辺)にあった関西学院は、1918(大正7)年の大学令公布を機に大学新設を検討する中で、移転候補地を探していた。資金難のため原田の森を売却し、上ヶ原に移転することを検討し、阪急電鉄の小林一三氏に相談した。
小林一三氏は、甲東園駅設置で面識のある芝川又右衛門氏との協力の下、該当地主4名との交渉をまとめ、1929(昭和4)年関西学院が上ケ原に移転した。
参考資料:甲東園と芝川家7 関西学院の移転

甲山を背景に学園花通りから時計台を望む(昭和32年)・西宮市歴史資料チーム提供)

以上、甲東園開発の経緯について簡単にまとめた。
詳しい紹介はこの後、項目を改めて紹介したい。

参考資料(昔の写真を含む)は以下の通り
 ① 甲東園と芝川家2 果樹園の開設
 ② 甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設
 ③ 甲東園と芝川家7 関西学院の移転
昔の写真は西宮市歴史資料チーム提供

文中の資料や写真は全て千島土地さんの了解を得て使用したもので、使用に際しては改めて千島土地さんの了解をえる必要がある。

投稿日時 : 2023-10-14 08:59:05

更新日時 : 2024-02-29 12:19:02

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西宮市の歴史や街並みに興味深々です。

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