大正中期から昭和10年代に栄えた「甲陽公園」は、阪急甲陽園駅を出たすぐ横に[甲陽遊園地]の西入口があり、西入口を入るとすぐに「甲陽劇場」の大きな建物があった。この地には現在日商岩井マンションが建っている。
この白亜の殿堂と呼ばれていた甲陽劇場は、向かって「右に少女歌劇場、左に活動写真を上映する映画館」があった。
宝塚にはすでに著名な少女歌劇団があり、宝塚には及ばないものの、童話歌劇、童話舞踊劇、新史歌劇を公演していた。
観客は少女歌劇の幕間に上映される活動写真を見るために、劇場内を左に行ったり、右にいったりしていたと言われている。
甲陽劇場の奥には「甲陽劇場食堂」があり、観劇の前後や合間に利用できるようになっていた。
和洋中のメニューがあり、至れり尽くせりのようですが、周りには料亭や料理旅館が沢山あったので、競争が激しかったかも知れません。
甲陽公園の中には映画撮影所とスタジオが建設されていた。
場所は大池の近く、現在の甲陽幼稚園の南側、当時の甲陽劇場の南にあった。
下記の写真の中央上部にある、白い三角の屋根のある建物が「東亜キネマ撮影所とスタジオ」だ。
甲陽公園内には甲陽劇場の少女歌劇の幕間に上映する活動写真を制作するために「甲陽キネマ」が造られ、映画製作を行っていた。
甲陽劇場が出来るまでは、敷地内にある仮設劇場で、日曜日には「エンタツ・アチャコ」等の著名人の演芸が行われていたそうだ。
1923(大正12)年9月に発生した関東大震災は関西にも大きな影響を与えた。
この震災を契機に、大阪の生命保険会社が自社宣伝用の映画を作成するために、甲陽キネマを買収し、同年12月に「東亜キネマ株式会社を設立」した。
獏與太平(古見卓二)が監督、絵島千歌子が主演し、保険会社製作の映画「求むる父」が製作された。
東亜キネマの安全と繁栄を願って、撮影所の裏に「東亜稲荷大明神」という稲荷神社を勧請し、入魂式を行っている。下の写真は入魂式の模様と、その時に撮影された俳優や関係者の記念写真です。
東亜キネマ発足当時の主なスタッフ・俳優を紹介すると、
大正13年2月から映画撮影は開始されますが、その第一回作品「愛の秘密」は、同年7月に公開されました。徳永フランクが監督し、岡村文子、徳永フランク、砂田駒子が出演しています。
【甲陽園】華やぐ映画撮影所|西宮市ホームページ
東亜キネマ発足当初の俳優・スタッフです。前列右から吉川英蘭(男優)、柳さく子(女優)、一人おいて金谷たね子(女優)、谷幹一(男優)、後列右より4人目高木鉄也(監督)です。
しかし、保険会社が映画製作を継続することは難しく、1924(大正13)年6月30日、「牧野省三氏」設立の「マキノ映画製作所」と合併した。
牧野省三氏は日本映画の基礎を築いた人物であり「日本映画の父」といわれていて、坂東妻三郎はじめ嵐寛寿郎などスター俳優や、多くの監督を育てた。
俳優、監督、脚本家、技術スタッフなど、多くの映画関係者が甲陽撮影所に移籍し、多数の映画が製作された。
これは牧野省三氏を東亜キネマに招聘できたことが最も大きな要因であるが、関東大震災後、東京地方の撮影所は壊滅状態となり、活動拠点が京都に移され、若手映画関係者が活路を求めて関西に流れてきたためと言われている。
映画は次々と製作され、牧野氏は大正から昭和初期に活躍した大衆演劇「劇団新国劇」の人気役者澤田正次郎を主役に、甲陽園周辺を舞台として「国定忠治」「恩讐の彼方に」を新国劇の関西公演の合間に一週間で作りました。
ところが、この映画製作がもととなって、牧野氏は東亜キネマを去りました。大正14年中ごろのことです。サトウハチロー氏の弟佐藤節(たかし)氏が、大正13年東亞キネマに入社し、その縁があってか、兄弟の父であり、「あゝ玉杯に花うけて」などの小説で人気を博した佐藤紅緑氏が牧野省三氏に代って所長となり、脚本を手がけます。三笠万里子主演の映画も撮影されました。
【甲陽園】華やぐ映画撮影所|西宮市ホームページ
しかし華やかな時代は短く、世界恐慌のあおりを受け1927(昭和2)年頃に撮影されたのを最後に撮影所は閉鎖された。
1935(昭和10)年頃に「極東映画」に使用されたこともあったが、これも長続きできず、経済の悪化とともに、甲陽公園も徐々に消滅し、戦後住宅地として再開発された。
甲陽園に関する詳しい資料が少なく、主に西宮市が発行している次の記事を参照した。
【甲陽園】甲陽園の開発 甲陽公園(大正7年5月)
【甲陽園】華やぐ映画撮影所
また、昔の写真は西宮市歴史資料チームの提供による。