『火垂るの墓』記念碑が震災記念公園の一角に完成

『火垂るの墓』記念碑

第二次世界大戦中、野坂昭如氏が満池谷に住み始めた6月に合わせて、震災記念公園の一角で『火垂るの墓』記念碑の除幕式が行われた。

『火垂るの墓』➡︎ は作家・野坂昭如氏の自らの体験をもとに1967年に書かれた作品。
1988年には、アニメ作品にもなり終戦記念日近くになると、テレビ放映されていたが、そのアニメ制作にあたっては野坂さんご自身がロケハンに同行したという作品だけあって、満池谷町、ニテコ池、回生病院、香櫨園浜などがそのまま描かれている作品となっている。

「ここに住み始めた頃には、もっとアニメの風景が感じられた。毎年、家族そろってアニメを見るのが楽しみだった。」と振りかえる満池谷町に住む土屋純男さんは、野坂昭如氏が亡くなった後、作品に出てくる場所などを調べ始めたという。

野坂昭如氏が書き残した「戦争は悲しみだけが残るんだ。」という言葉に出会った土屋純男さんは、戦後75年になる2020年に記念碑を建てたいと2017年12月に実行委員会を立ち上げて広く寄付を募り、2020年6月7日(日)に震災記念公園の一角で除幕式が行われた。

野坂昭如氏の奥様のご出席も当初は予定されていたが、新型コロナの影響でメッセージでの参加となったが、野坂昭如研究家でもある村上 玄一氏も東京から駆けつけられ、夏のような日差しの下での除幕式となった。

記念碑は御影石が使われていて、主碑はサクラ御影、周囲は丹波鉄平石。
主碑の台座は2冊の本が重ねられているイメージになっている。
碑の傍らには「アンネのバラ」を植えられていて『恒久平和』の祈りが込められている。

野坂 暘子氏のメッセージの中にも「生前、6月は僕が浮浪児になった時だ!と、野坂が話していました。」という言葉があり、実行委員長の土屋さんも「野坂さんが満池谷にすみ始めた6月を目標にして頑張ってきました!」と話す。

野坂昭如氏は回生病院➡︎ の建て替えが決まった2015年8月15日の朝日新聞に寄稿されている。
その中で『今もなお自然に恵まれた神戸。先端をいく街だからこそ、発展至上主義から一歩、距離を置き、自然と共存する、未来につながる街になってほしい。』と書かれているが、こうして記念碑ができた今、神戸をそのまま西宮に読み替えて、この記念碑を守り続けるバトンを受け取った気がする。

阪神淡路大震災の大きな記念碑の裏側にひっそり建つ『火垂るの墓』記念碑。
お近くに行かれたら、立ち寄ってみてください。

投稿日時 : 2020-06-07 18:32:23

更新日時 : 2020-06-08 10:57:39

この記事の著者

編集部|J

『西宮流(にしのみやスタイル)』の立ち上げ時からのスタッフ。
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