「全国高等学校野球選手権大会(夏の全国高校野球大会)」は大正4年(1915年)、「全国中等学校優勝校大会」の名前で「豊中グラウンド」で開始された。
豊中グラウンドは、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が、沿線の集客のため大正2年
(1913年)5月に建設した。赤レンガの外壁に囲まれたグラウンドは当時としては日本一の設備を誇った。
第1回大会の参加校は10校。5日間の熱戦のすえ、京津地区代表の京都府立第二中学(現・鳥羽高校)が優勝した。
当時大阪では野球熱が高まり、大勢の観客が詰めかけたため、収容しきれなくなり、第三回大会から「鳴尾球場」で開催されることになった。
豊中グラウンドの後に、昭和63年(1988年)高校野球メモリアルパークとして整備、レンガ塀には第1回大会始球式のレリーフがはめ込まれている。
平成29年(2017年)「高校野球発祥の地記念公園」としてリニューアルオープンした。
豊中グラウンドでの大会は、参加校は少ないが敗者復活戦もあり、長期化による各学校の自払い遠征費を考慮に入れ、会場の複数化を検討した結果鳴尾球場になった。
阪神電鉄は1916年に経営権を得て、鳴尾競馬場のフィールドに陸上競技用のトラックとテニスコート及び2面の野球場を設置していた。鳴尾競馬場はこの当時政府の方針により馬券の販売が禁止され、競馬が開催出来ない状態であった。
競馬場の内側にあるグラウンドは常設のスタンドを取り付けられなかった。そのため第1グラウンドの内野に木造の仮設席を取り付けた。しかし大会を観戦するファンが年々増加する傾向にあった。第2グラウンドの一部にも仮設席が設置され、その仮設席を客席に観客を乗せたまま移動させるという光景まで見られたという。
ところが大正12年(1923)馬券が復活し、ふたたび競馬専門になったが、トラック内には鳴尾球場があり、早急に移設する必要が生じた。
この時阪神電鉄は、ちょうど兵庫県から枝川と申川の跡地を購入していて、その廃川跡に甲子園球場を突貫でつくることとなった。
鳴尾球場では第3回大会から第9回大会まで行われたが、第4回大会は米騒動のため開催されなかったので、計6回の大会が開催された。
中等学校野球大会の人気は年々高まり、第6回大会の頃からは詰めかける観客をさばき切れなくなった。
第9回の準決勝戦・甲陽中学対立命館中学では観客がグラウンド内になだれ込み、試合が出来なくなる事態も発生した。
こうした事態が阪神電鉄に甲子園球場を建設させる動機にもなった。
「全国中等学校優勝野球大会開催の地記念碑」は鳴尾球場のあった地の近く、「浜甲子園運動公園」に設置されている。八角錐の台座の上に野球少年の銅像が造られていて、正面に説明版がはめ込まれ、各面に第三回大会から第九回大会までの結果が記されている。