夙川の河口に広がる白砂の砂浜は、広田神社の浜の南宮の前にあることから「御前浜」と呼ばれていた。
阪神電鉄は1907(明治40)年に香櫨園駅を開設し、駅に近いこの浜に「香櫨園海水浴場」を開発した。阪神電鉄は1905(明治38)年に神戸線開業と同時に隣の「打出浜」に海水浴場を開設したが、海中は牡蠣(かき)の殻や築堤の崩れた石で怪我をしたり、小魚に刺されたりなど、余り適した環境ではなく、御前浜に香櫨園海水浴場を開設することになった。
御前浜の東端には、幕末に黒船の来襲から防衛するために築いた「西宮砲台」がある。砂浜のため地盤が軟弱で、基礎工事では1,541本の松杭が打ち込まれた。建設に必要な御影石(花崗岩)は主に、岡山の島々から切り出し海路にて運搬した。突貫工事で建設が進められ、3年後の1866年(慶応2)に竣工。完成後、空砲を試し撃ちしたが砲煙が内部に充満してしまい、結局実用には向かず、一度も使われないまま明治を迎えることとなった。
その後明治40年代に阪神電鉄へ払い下げられ、香櫨園浜遊園の一部として利用された。
1910(明治43)年、屋上に鉄柵を設け、電灯で飾り、海水浴客の「納涼台(ビヤホール)」として数年間開放された。砲台の周りは遊園地となっており、露店も多く建ち並び大変盛況であった。
1913(大正2)年奏楽堂(音楽堂)と博物館はそのまま香櫨園の浜へ移転。博物館は「阪神館」と改めて公会堂(余興場)になり、「郊外生活」を楽しむため移住してきた知識人たちの園芸展や写真展などが開催された。海辺の奏楽堂では楽団による生演奏が行われるなど、阪神地域のモダンな雰囲気を醸し出していた。
奏楽堂は1934(昭和9)年の室戸台風により倒壊。奏楽堂跡地前には、翌年市役所の福利厚生施設「ビーチハウス(海浜休憩所)」が開設された。
大変盛況であった海水浴場は戦争の影響で1943(昭和18)年に閉鎖。軍関係の施設として利用されたが、1945(昭和20)年5月、空襲で焼失した。
戦後、海水浴場が復活するのは1947(昭和22)年で、またにぎわいが戻ってきた。
昭和30年代後半にはいると、海水汚染が目立つようになり、昭和36年ごろは西宮砲台の西隣に「マリンプール」ができている。海で泳ぐのはもっぱら大阪や神戸などの遠方から来る人々だったといわれている。
1965(昭和40)年、環境の悪化による海水汚染がすすみ、香櫨園海水浴場は甲子園海水浴場ともに閉鎖されることになった。その後昭和50年代には、海の水をきれいにする取り組みが功を奏し、ウィンドサーフィンを楽しむ人が集い、野鳥が飛来する楽園へと姿を変へ、現在の香櫨園浜になっている。
香櫨園浜(御前浜)は海水浴場から現在の状況に変わったが、市民の憩いの場としてこれからも愛される浜であると期待して行きたい。
古い写真は西宮市歴史資料チームの提供による。