阪神間モダニズム文化

神戸女学院

大阪と神戸に挟まれた六甲山を背景とする地域、武庫川以西の西宮市、芦屋市、そして神戸市東部までを含めた地域を阪神間と呼ぶ。これらの地域は明治後期以後、次々に鉄道が開通し、大阪の企業家たちが競って住宅や別荘を建築、著しい都市発展を遂げてきた。神戸では明治期、外国人居留地を拠点に貿易が始まり西洋文化が早くから浸透し、国際都市として独自の発展をみた。
このように神戸と大阪との間に位置する阪神間は、革新と伝統、西洋と日本が交錯しつつ
新しいライフスタイルが築き上げられた地域である。阪神間モダニズムとは、明治後期から大正期を経て、太平洋戦争直前の昭和15年頃までの期間において、阪神間の人々のライフスタイルを形成し、地域の発展に影響を与えてきた生活様式を言う。

武庫川女子大学甲子園会館(旧甲子園ホテル)

大阪ー神戸間には明治7年に官営の鉄道が開通し、明治38年には阪神が、そして大正9年には阪急が開通した。その後阪神・阪急による沿線の宅地開拓が進み人口が増加すると共に、文化人や著名人が多く住むようになった。従来からの酒造業を始めとして、明治に入って新しい産業も導入され、経済的に余裕を持った人たちによる生活様式の近代化(モダニズム)が行われるようになった。
この時代を代表するモダニズム建築にその様子が伺われる。

武庫川女子大学甲子園会館」は、東の帝国ホテルに対し西の甲子園ホテルと呼ばれた名建築で、フランク・ロイド・ライトの愛弟子の遠藤新が設計し昭和5年(1930)に竣工。
中央に玄関・フロント・メインロビーを置き、左右に大きくメインダイニングとバンケットルームを張り出し、その両翼の上階に客室を階段状に配した構造になっている。
(登録文化財)

旧甲子園ホテル・南側の庇を支える波模様の列柱

明治40年に関西で初めての鳴尾競馬場が開設され、昭和12年に関西競馬場と改称された。昭和10年に鉄筋コンクリート造りのスタンドが造られた。その一部のメインスタンドが現在武庫川女子大学付属中・高校の敷地内にある「芸術館」と呼ばれる建物で、現在音楽・美術・書道の授業や芸術系の部活動に使用されている。

旧鳴尾競馬場のメインスタンド・現在も武庫川女子大学のキャンパスとして使用されている

甲子園口駅の東を流れる用水路を南に辿ると直ぐ、瀟洒な建物の「松山大学温山記念会館」がある。松山創立者・新田長次郎(温山)翁が娘婿の建築家・木子七郎氏に設計を依頼した、広大な庭園内に佇むスペイン風洋館。建設は昭和3年で、平成3年に松山大学に寄贈され、現在は学生のゼミナール活動や研究会議などに利用されている。(登録文化財)

スペイン風の瓦と丸窓、車寄せのある玄関

昭和13年に鳥取県出身の鉄山経営者、近藤統一郎氏が見積で最高額を出した業者に依頼したという建物。設計者は茶室研究者として有名な岡田孝男氏で、昭和41年から実業家の山本清氏が5代目当主として住んだ。平成6年に亡くなった山本清氏の遺言により、平成10年に「財団法人・山本清記念財団」が設立された。
現在様々な文化教室が開催されていて地域の交流の場となっている。事前申し込で有料拝観が出来る。(登録文化財)

夙川の東・西宮大沢線に沿って建つ瀟洒な和洋折衷の建物

浦家住宅」は山本清財団と道路を挟んだ向かいにある個人住宅。建築主の浦太郎氏は著名な数学者で、若かりし頃フランスに留学し、著名な建築家のル・コルビュジエに師事していた建築家吉坂正孝氏と知り合いになり、建築を依頼した。
竣工は昭和31年で、東西に並べた二つの正方形ブロックを中間の玄関部分が繋ぐ、RC造住宅。各辺中央をく字形柱で支えてピロティとし、煉瓦外壁に突出する小口が表情を与えるモダニズム住宅の傑作と言える。(登録文化財)

斬新な外形の煉瓦造りで、ピロティの開口部が特徴的な住宅

関西大学上ヶ原キャンパスの中央芝生正面に面し、正門、中央芝生、甲山を貫くキャンパス軸上に時計塔の中心が位置する、関西学院のシンボル的建築物。(登録文化財)
WMヴォーリスが設計した、スパニッシュ・ミッションスタイルで鉄筋コンクリート造り、一部地階、塔屋時計台を有する2階建ての建物。竣工昭和4年で、竣工当時は時計は取り付けられていなかった。
創立125周年の平成26年に「関西学院大学博物館」として開館した。関西学院の歴史を踏まえ、研究や教育の成果などさまざまな情報を発信している。

神戸女学院岡田山キャンパスは「12棟の建物全体が重要文化財」に指定されている。神戸女学院の建物全体がウイリアム・メレル・ヴォーリズ設計による建築物であることから、全体が指定対象となっていることに特徴がある。(重要文化財)
昭和8年の竣工で、噴水のある中庭を囲むように図書館・総務館・文学館・理学館が配置されていて、各建物は全て回廊で繋がれている。
第二次世界大戦と阪神淡路大震災の二つの大禍をくぐり抜けてもほぼ原形を留めて居る。

大正12年に鳴尾球場で開催された第9回全国中等学校優勝野球大会で、鳴尾球場に近い甲陽中が決勝戦で和歌山中と対戦し優勝した。この時に仮設スタンドでは大勢の観客を収容しきれずに、観客がグランドになだれ込み、試合が中断することになった。
このために主催者の大阪朝日新聞が、鳴尾球場を所有する阪神電鉄に本格的な野球場の建設を提案した。当時廃川とした枝川・申川の埋め立て地に新球場建設を計画していたこともあり、大正13年に甲子園大運動場として竣工した。
その後この地域に遊園地や動物園・水族館・プール・テニスコート等の施設が造られた。この一帯は阪神間モダニズムを代表する一大レジャーゾーンとなった。
昭和11年に「甲子園球場」と名称が変更され、前年に結成された大阪タイガース(現阪神タイガース)の本拠地となった。春夏の全国高校野球選手権の開催やアメリカンフットボールの甲子園ボールの開催でも有名となっている。

改装された阪神甲子園球場

大正14年8月から1年4カ月をかけて、昭和元年2月に、梅田淳氏指導の下「武庫大橋」が完成。
大正9年に大阪府と兵庫県は増大する交通に対処するために、新しい道路建設に着手した。その一環として武庫大橋が完成した翌年の昭和2年に道路が完成した。
橋の中央部にバルコニーがあり、高欄は北木石で作られている。かつては路面電車の阪神国道線も併設されていた。
橋の中央から旧甲子園ホテルと甲山が直線状に見える。(日本百名橋、土木遺産)

まもなく竣工100年を迎える武庫大橋

阪神間モダニズムを代表する建築物や構造物を取り上げたが、まだ紹介出来ていない物もある。またスペース的に説明が簡素化したため、西宮ペディアを中心に参考資料へのリンクを示しているので参考にしていただきたい。

西宮市の現存する貴重な文化財、時間のある時に是非一見を。

投稿日時 : 2022-10-28 20:34:22

更新日時 : 2024-03-04 08:08:30

この記事の著者

ライターT

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西宮市の歴史や街並みに興味深々です。

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