ららぽーと甲子園に戻って欲しいな(^_-)-☆ レオポン!

レオポン(前田さん提供)

リゾ鳴尾浜にいた剥製のレオポン(ジョニー)。
昔、阪神パークがあった『ららぽーと甲子園』>>に戻ってきてほしい!!と切に願っている人は多い。特に鳴尾にお住まいの方は・・・・。

2020年11月末に閉館した『リゾ鳴尾浜』>>には剥製のレオポン>>が展示されていた。
つい先日、テレビ朝日の『サンドウィッチマン&芦田愛菜の博士ちゃん』でもレオポンが取り上げられていたが、レオポンとは、今から60年ほど前にヒョウの父親とライオンの母親の間に生まれた子供。
ヒョウの英語名「leopard」とライオン「lion」からの造語で「leopon」となった。

生きていた時のジョニー(たてがみが少し見える)

1959年から1985年までの間に阪神パークにいた5頭のレオポンは、死後全てが剥製となった。
5頭のうち一番長生きしたジョニーだけが西宮に残り、阪神パークもあった鳴尾地域の『リゾ鳴尾浜』に展示されていたが、『リゾ鳴尾浜』が閉館となってその行先に大きな関心を寄せている人は多い。

鳴尾で地域活動をしておられる方から、貴重なお写真などを提供していただいた。
ららぽーと甲子園のすぐ近くにお住いのその方は、阪神パークの歴史も生活の一部として見守ってこられた。
「僕たちの周りではみんな、なんとしても、レオポンがららぽーとに戻って来てほしいと言うてるんよ!!」

鳴尾という地域の歴史は古い。
昭和26年に西宮市に合併したが、古くから景勝地として万葉集>>にも詠まれ、スイカや綿やイチゴ>>、漁業などの産業も盛んで、鳴尾競馬場>>、大運動場・ゴルフ場、甲子園球場>>などスポーツ・レジャーのメッカでもあった。
戦前にあった初代・浜甲子園阪神パークは、昭和18年飛行場建設と共に姿を消したが、昭和25年に現在のららぽーと甲子園のある場所に二代目の「阪神パーク」ができ、現在では否定的な見方もあるが、レオポンの誕生という先進的な取り組みもあった。
戦後の住宅不足を解消するために、巨大な浜甲子園団地>>ができたのも、この鳴尾地区。

「鳴尾はいつも新しいことをしてきたけど、過去の遺構をあまり残してきてないのよ・・・(-_-;) 歴史を次世代に語り継ぐとき、やっぱり何か残っている物があると響くのよ。だから今回のレオポンの剥製も、そういう面からも鳴尾に残してほしいんよ!!ららぽーとに戻って来て欲しいんよ!!」 by 鳴尾の住民

レオポンが誕生した時の盛り上がりを偲ばせるチケット

今や海鳥の楽園で、ウィンドサーフィンのメッカにもなっている甲子園浜>>では、引き潮になると浜甲子園阪神パークの様々な遺構が姿を現す。
戦争中に、少しでも早く飛行場を完成させようと、取り壊した浜甲子園阪神パークの建物や基礎などがそのまま海に捨てられたようで、潮が引いた時には、当時の浴場施設にあったと思われるライオン>>もたくさんの遺構に混じって出てくる。
甲子園浜は、まさに「戦争と平和の象徴」。

甲子園浜
引き潮の時に見つかるライオン

阪神パークつながりで、もう一つの「ライオン」が鳴尾にはある。
阪神パークがあった時に、甲子園駅から阪神パークまでの間の道路に飾ってあった動物の像たち。
様々な動物の像があったが、そのうちのライオン像は鳴尾小学校に飾られている。
実際にこういう物が残されていると、子供たちにも歴史が伝えやすい。

レオポンのお母さんのライオン、浜甲子園阪神パークの湯口(?)のライオン、阪神パークの飾りになっていたライオンの像。
鳴尾には3つのライオンが関係していた(^_−)−☆

2016年11・12月号の『宮っ子』の記事もご参考に>>


投稿日時 : 2021-02-13 16:14:00

更新日時 : 2024-02-29 07:15:12

この記事の著者

編集部|J

『西宮流(にしのみやスタイル)』の立ち上げ時からのスタッフ。
日々、様々な記事を書きながら西宮のヒト・モノ・コトを繋ぎます。

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