5月1日からの新元号が『令和』に決まりました。
あちこちで新聞の号外が奪い合いになっていたようですが、万葉集の梅の歌が出典だとか・・・・
万葉集が注目を浴びていますね。
『万葉集』は日本最古の和歌集で、4516首の歌が20巻に分けて編集されていて、歌の詠み人は、実に幅広く天皇から庶民に至るまで様々で、なんと日本全国の1200か所もの地名が詠み込まれているようです。
当時、大和に朝廷があり、奈良県を中心として近畿地方で詠われた歌も数多く、兵庫県だけでも約140首の歌があるようですが、西国への交通路として重要だった西宮にゆかりのある歌も9首。
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読まれた歌からは、武庫の入江から続く一帯の浜辺は鶴が飛来し、白砂青松の美しい風景の広がる地域であったことを偲ぶことができます。
・住吉の 得名津に立ちて 見渡せば 武庫の泊まりゆ 出づる船人(3-283)
訳:住吉の得名津に立って見渡すと、武庫の港から漕ぎ出す船人が見える。
・武庫の浦を 漕ぎ廻る小船 粟島を そがひに見つつ ともしき小船(3-358) 山部赤人
訳:武庫の海辺を漕ぎ廻っている小船、粟島を背後に見ながら漕いでいる、羨ましい小船よ。
・武庫川の 水脈を速みと 赤駒の あがく激ちに 濡れにけるかも(7-1141)
訳:武庫川の流れが速いので、栗毛色の馬のもがく水しぶきで、衣が濡れてしまったことだ。
・武庫の浦の 入江の渚鳥 羽ぐくもる 君を離れて 恋に死ぬべし(15-3578)
訳:武庫の海辺の入江の渚鳥のように、覆い包むように守って頂いたあなたと別れて、私は恋に死んでしまいそう…。
・朝開き 漕ぎ出で來れば 武庫の浦の 潮干の潟に 鶴が声すも(15-3595)
訳:朝早く港を漕ぎ出して来ると、武庫の海辺の干潟で鶴の鳴く声がしている。
・武庫の海の 庭良くあらし いざりする 海人の釣舟 波の上ゆ見ゆ(15-3609)
訳:武庫の海の漁場が良いらしい。 魚を捕っている海人の釣舟が波の上に見える。
・たまはやす 武庫の渡りに 天伝ふ 日の暮れ行けば 家をしそ思ふ(17-3895)
訳:武庫の渡し場で、日が暮れて行くと、家のことが偲ばれることだ。
9首のうちの多くが、武庫川や武庫の浦・武庫の海・武庫の渡り・・・と武庫の名前がたくさん出てきます。
・海人娘子 いざり焚く火の おぼほしく 角の松原 思ほゆるかも(17-3899)
訳:海人の娘たちが焚く、いさり火のように、ぼんやりと角の松原が 偲ばれることだ。
「角の松原」の「角」は、津門の海岸の「津門」説や、海が湾入して突き出た地形を「角」とたとえた説、または「津の野」という語源説など諸説あるようです。
西宮市松原町にある松原神社付近が故地とされています。
・我妹子に 猪名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか示さむ(3・279) 高市連黒人
訳:わが妻に猪名野は見せた。名次山や角の松原はいつになったら、見せてやれるだろうか。
阪急苦楽園駅の東にあるニテコ池のほとりに、名次(ナツギ)神社があります。
古代は清音で「ナスキ」と読んだようですが、このあたりから広田神社にかけての丘陵が「名次山」と称されたようです。
また、これだけ万葉集とゆかりのある西宮には、万葉植物苑とも言われる西田公園があります。この植物苑は、晩年、西宮にお住まいだった故犬養孝博士が尽力されて昭和63年に誕生しました。
犬養孝先生が選ばれた1基の万葉歌碑や万葉集に出てくる植物の説明板72基(公園開設当時)も設置されていて、万葉の世界が楽しめます。
小高くなった西田公園は、その昔公園のすぐ下まで入海であったことは、小型土錘(漁具)が多数採取されたことでも分かる。