元は京都の下級公家の出だったが、明治維新における日本政府の重要人物となった。
実は、この岩倉具視と西宮には、いろいろ面白い繫がりがある。
明治4年から明治6年にかけて、自らが率いて岩倉使節団として日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を巡った。政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。木戸孝允や大久保利通、伊藤博文などが副使として同行していた。
東京丸の内にあった岩倉具視邸のはなれが、さまざまないきさつで移転をかさね、昭和52年に西宮神社に移築保存されている。西宮神社のホームページ>>>
明治新政府の主要な人物、岩倉具視、公家の三條実美、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、長門の木戸孝允、伊藤博文の六人(六英傑)が度々会合を重ねたということから、六英堂という名が付けられている建物。
建物の中には、六英傑の写真や岩倉を見舞った明治天皇の絵なども飾られている。
鞘(さや)の間と呼ばれる、控えの間もある和の様式の木造平屋建て。質素を好んだ岩倉具視が好んで使っていたはなれは、明治天皇が、岩倉具視の病床を見舞ったという逸話もある建物だ。
<名塩にある教行寺・名塩八幡神社との関係>
教行寺九世中山暉韻の妻は、岩倉具視の曽祖父の娘だったということで、教行寺と岩倉具視には姻戚関係があり、また教行寺十世中山摂観と岩倉に親交があった。
勤皇の志士で尊王運動に奔走した中山摂観とは深い繫がりで、明治維新後、岩倉は教行寺の鎮守である名塩八幡神社に石灯籠を寄進している。
名塩教行寺 名塩教行寺の遠望 名塩八幡神社
晩年、有馬温泉に療養に行ったと言われているが、名塩を通って行ったのだろうか。