1884(明治17)年に抵当流れの土地を買い取った二代目芝川又右衛門氏は、買収した土地が全く稲作や畑に向かない土地であることがわかり、1889(明治22)年果樹園として活用することになり、この果樹園に「甲東園」と名付けた。
果樹園開設当時はまだ阪急電鉄西宝線も開通していず、現在のJR西ノ宮駅から人力車で行くしか方法がなかった。自然が豊かで広大な土地は、友人を誘ってウサギ狩りに出かける等、又右衛門氏が非常に気に入っていたようで、果樹園に隣接して別邸を設けることになった。
1911(明治44)年、又右衛門氏はここに和の趣のある洋館を建設した。設計は「関西建築界の父」といわれる若手建築家の武田五一氏に依頼した。その建物は杉皮張の外壁、網代組の腰壁や天井など和の趣が多分にあるものであった。
当初は純フランス風の洋館を望んでいたが、住み始めた頃は多少の違和感もあったものの、茶道をたしなんでいたため、その良さに馴染んできたと言われてる。
1923(大正12)年に家督を息子の又四郎氏に譲り、又右衛門氏は当初別邸として茶会や園遊会など社交の舞台として活用してきたが、本格的に甲東園で隠居生活を楽しむようになる。
1927(昭和2)年には、高齢になった又右衛門氏の生活リズムに合わせるように、平屋建ての和館を建設する。設計はやはり武田五一氏に依頼した。
建物外観はスパニッシュ様式だが、内部は生活の場を意識して殆ど和室であった。
また、洋館もスパニッシュ様式に改築し、和館とのスタイルを統一している。
「甲陽園芝川邸」はその敷地面積が約7500坪におよび、その時々で整備・増築されて姿を変えてきている。
洋館から見える洋風庭園は、イギリスやフランスの宮殿にあるような庭園で、居ながらにして海外宮殿にいるような気分を味わえたことだろう。
「山舟亭」は、茶人・高谷宗範の設計監督により、庭園は大分県の名勝・耶馬渓の趣を取り入れて造られたといわれています。山の中の風 物の推移に応じて舟のように移動させることからその名がつけられ、当初は単独で建っていたものが、後に茶室「不老庵」とひと棟にまとめられました。
甲東園と芝川家5 芝川又右衛門邸
もと大阪伏見町芝川邸にあった茶室「松花堂」を、大正期に甲東園に移築。移築に際しては茶人・高谷宗範の設計監督の下、付属広間や和風庭園も設けられました。
甲東園と芝川家5 芝川又右衛門邸
「寿宝堂」は、二代目芝川又右衛門の傘寿(八十歳)の記念に昭和8年に建立された持仏堂。建築家・武田五一の設計で建てられ、現在は名古屋市に移築されています。
書庫(図書館)は、建築家・武田五一による設計で、校倉造の技法を取り入れたとされています。
甲東園と芝川家5 芝川又右衛門邸
(昭和13)年、又右衛門氏は家族に看取られながら息を引き取った。
その後、住む人を失ったこともあったが、風水害や太平洋戦争による被災により、終戦後家族がここに集まって住むことになり、子から孫へと住み続けることになった。
しかし、1995年の阪神淡路大震災で、洋館の煙突が倒壊したり、室内の漆喰が剥がれたりして、住み続けることが困難になり建物の解体を検討せざるを得なくなった。
当時芝川家の当主であった又彦氏(又右衛門の孫)の強い思い入れもあり、洋館は幸運にも「博物館明治村」へ移築されることになった。
明治村では移設された洋館の内部をガイド付きで見学することが出来る。
比較的被害の少なかった和館はその後も住み続けていたが、老朽化により2004年に解体されることになった。
参考資料
・ 千島土地 アーカイブ・ブログ 甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設
・ 千島土地 アーカイブ・ブログ 甲東園と芝川家5 芝川又右衛門邸
文中の資料や写真は全て千島土地さんの了解を得て使用したもので、使用に際しては改めて千島土地さんの了解をえる必要がある。