樽廻船と新酒番船

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樽廻船

大坂と江戸を結ぶ航路のために開発されたのが「菱垣廻船」である。
菱垣廻船の誕生は、江戸時代の初期で、泉州堺の船問屋が大阪から木綿・綿・油・酒・酢・醤油などの商品を積み込んで江戸に送った。これを発端として定期就航の道が開かれ、「江戸積廻船問屋」が開業され、発展していった。

浮世絵に描かれた菱垣廻船

菱垣廻船では色々な荷物を積むことになり、樽は船底に軽い綿製品や紙製品等は上部に積み込むことになる。船主は出来るだけ多くの荷物を積もうとするために、出港迄に長時間を要することになる。また途中海が荒れたり、嵐に在ったりすることもあり、荷打ち破損等も多くなり、積み荷の荷主で共同保障する仕組みが組まれている。
このために腐敗しやすい酒を一日も早く江戸に届けるために、「樽廻船問屋」が大坂・西宮に成立し、酒専用の「樽廻船」が就航することになった。
菱垣廻船・樽廻船の詳しい説明はこちらを参照。

大関酒造にあった模型

当時の日本酒は一年物の酒であり、次の新酒が出来るまでの期間販売される。従ってその年に出来た新酒を江戸では待ち焦がれている。この酒を江戸に届けるのが「新酒番船」と呼ばれている。それぞれが江戸への一番乗りを目指す競争が激しくなり、競争を平等化するために行われたのが「新酒番船」である。

大坂8軒・西宮6軒の樽廻船問屋が廻船に新酒を積み込み、大坂安治川沖・西宮浦から同時に出発し江戸先着を競ったレースだ。後により公正を期するために西宮浦に集まり一斉に出発することになった。
新酒番船は一刻も早い到着が酒屋、廻船問屋、船頭などの関係者に大きな富をもたらすことになる。そのために沖合の黒潮の早い流れを目指して船を進めるため、危険な航海となることが多かったが、江戸への到着は速ければ3~4日で到着した。

新酒番船入津繁栄図・にしのみやデジタルアーカイブより

大阪・西宮の樽廻船問屋によって船積みされた酒荷物は品川に着くと、江戸の廻船問屋の瀬取船に積み替えられ、新川に立ち並ぶ酒問屋の蔵前に運ばれ、酒の送り状と照合された後、酒問屋に引き取られる。さらに仲買人に売り渡されこの時に値段が付き順次納入が終わるまで代金が支払われる。

新酒番船入津繁栄図の拡大

初物好みの江戸っ子にとっては新酒番船は気性によく合った慣行として明治18~19年頃まで受け継がれた。大坂・西宮の出港の時は、囃子や太鼓で送り出され、江戸に着いては酒問屋の盛大な出迎えのうちに、船頭は赤襦袢一枚で踊りながら賞品・金一封を受け取った。
番船の勝敗で一年間の酒価が決まるので、酒造家にとっては家業を掛けた真剣勝負といえる。
最短56時間で江戸に到着したという当時では凄まじい記録も残っており、値段が決まると早馬で酒造家に知らせることになっていて、知らせが到着するまでの1週間程度は夜も寝ずに待っていたと言われている。

惣一番の半纏

「それいっちゃ、やれいっちゃ」の掛け声ととも練り歩く「新酒番船踊」が、秋に西宮神社で行われる『酒ぐらルネサンスと食フェア』というイベントの中で再現されている。

関連資料として西宮市デジタルアーカイブ「酒都西宮と新酒番船」も一読を。

昔の写真は 西宮市歴史資料チームおよびにしのみやデジタルアーカイブ提供

投稿日時 : 2022-09-24 11:37:37

更新日時 : 2024-02-29 12:22:20

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