西宮市東鳴尾二丁目に『まちcafeなごみ』があります。
地域の拠点として様々な人が集まり、繋がる場所を目指し、地域住民の有志で構成する「鳴尾東まちづくりの会」から発展してできた「NPO法人なごみ」が運営していて、ここを事務局にして様々な取り組みが行われていますが、今年(2018年)9月に西宮市未来づくりパートナー事業の一環として「地域(まち)のがっこう」が開校しました。
今年度は『自分たちのまちを知ろう』をテーマに4回の講座が予定されており、9月15日には『鳴尾の歴史:産業編』の座学が行われ、第二回目の10月13日は実際に街を歩きました。
この日、鳴尾東公民館に集まったのは約20人。教頭先生のあいさつの後、2クラスに分かれそれぞれ担任・副担任が紹介され、校則の唱和や校歌斉唱などもありました。
阪神タイガースの替え歌の校歌は、口三味線のイントロから始まりました(笑)
その後はホームルーム。用意されていた箱を積み上げるという単純なワークショップは、年代の差もなく盛り上がり一気にお隣同士の距離が近づきます。
この日の講師は、前回の座学に引き続き足立年樹さん。(元西宮市立西宮東高校校長)
「鳴尾の産業・・・というテーマだったので、もう少し南にあった昭和電極や豊年石油、旭工業、新明和工業などを巡ればよかったのですが、あのあたりは全くそれらの痕跡が残っていないので、今日は、鳴尾の綿やいちごに関係のある方や、今年の3月まで営業されていた質屋さんを訪ねます。」
鳴尾の街は、元々湿地帯だったので少しでも高い場所から人が住み始めたという歴史があり、鳴尾の路地を歩くとその名残が見つけられます。
「鳴尾の綿づくりの歴史」を残すために、「鳴尾綿つみ唄」の歌と踊りの復活の活動をされている牧野保代さんのお宅でお話も伺いました。
「鳴尾の路地は、馬一頭(馬車)がやっと通れる路地だったようで、その馬車から屋敷を守るためにと石で囲いを作っていたようですね。」
「だんだんと 昔の建物がなくなってきていますが、建物の前の格子をみるとその家の職業が分かったとか聞きますので、またどなたか研究してください。」
鳴尾の綿作りは18世紀半ばから栽培され、明治15年ごろが最盛期だったようです。その後明治29年30年の台風や、外国産の綿の関税がなくなったことによって急速に衰退したという。
また、日本の綿は繊維が短く、外国産の機械にかからなかったことも要因だと教えていただきました。
昭和3年には、甲子園球場で「鳴尾綿摘み音頭大会」が開かれたという記録も残っているようで、牧野さんの活動もこれからも続けていただけることでしょう。
鳴尾の街に布団やさんの看板が多いのは、綿を作っていた場所ということからだったようですね。
とても品質のいい綿だったようです。
浜の方に競馬場があったおかげで、鳴尾駅までの間にはたくさんの質屋があったと言います。
通称「おけら街道」と呼ばれていた道もあったとか・・・・。
今年の3月まで現役だったという質屋さん(大半)の中も見せていただきました。
壁に、まだ看板の跡が残る大きな建物は、質ぐさを保管していた蔵も一体の建物です。
最後は、鳴尾いちごを広めた宇和さんにもお話をお聞きしました。もう建て替えられてはいますが、この場所には明治の前から住まわれていたご子孫です。
「ネットで検索すると私の祖父や曽祖父の名前が出てきます。父や私はイチゴ栽培にはかかわっていませんが、祖母の話によると『昔はジャムづくりのために大勢の人が寝泊まりしていて、たくさんの布団が敷いてあった。』ようです。」
「綿がだめになった後の産業として、イチゴを持ってきた功績は大きいと思います。」と足立先生。
鳴尾一帯がいちご畑であった様子は、佐藤愛子さんの『これが佐藤愛子だ』の中にも出てきます。
鳴尾の街の魅力の一つは、迷子になるような路地めぐりかもしれません。
鳴尾の路地を歩くと、自分がどこにいるのか分からなくなってしまいそうですが、くねくねまがった道をたどっていると 昔からの大きなお屋敷や土蔵にも出会います。
古い建物を住み続けるのは、手がかかったり、不便なこともあるかもしれませんが、街なかに、そんな建物が残るのも、その街の文化なのかもしれませんね・・・・。
地域(まち)のがっこうが、そんな文化の担い手になってくれますように。
鳴尾・高須エリアの方で『地域(まち)のがっこう』にご興味のある方はこちらから➡
以前、西宮流がまち歩きをした様子の記事はこちらから➡
<参考>10/12~11/30の期間、西宮市役所1Fギャラリーで『鳴尾・高須と時代のうねり』と題した写真展が開催されています。
<読者の方にお願い>
戦前、上田中町の上田公園の北側あたりにあった『大阪フェルト』という会社のことをご存知の方、またはなにか資料をお持ちの方がおられましたら、お手数ですがご一報ください➡