「灘の酒」とか「灘五郷」の名称で呼ばれるこの地域の酒は江戸時代に目覚ましい発展を遂げた。
西宮は江戸時代の灘五郷に含まれていないが、それは西宮郷が他郷にさきがけて酒造地となり大阪町奉行支配であったのに対し、他郷は代官所支配であったからと考えられている。西宮郷が灘五郷に加えられたのは、下灘郷を除く地域で「摂津灘酒造組合」が設立された明治19年になってからのことである。
西宮市サインパネル 「宮水と酒文化の道」より
この地には、①寒造りに適した六甲おろしの寒風 ②酒造用水に最適な宮水 ③近接地の良質な播州米 ④六甲山系の急流による水車精米 ⑤海上輸送に便利な海岸地帯 ⑥勤勉な丹波杜氏の労働・技術力 ⑦樽・桶に使用する吉野杉の良材、 の名酒を生む7つの要因が揃っていた。
灘における酒造の歴史は、寛永元年(1624)西宮における醸造が最初とされるが、伝統的にはもっと古く、元弘建武(1330-40ころ)の昔から行われていたようである。
地理的な条件でも特異なものに、「六甲山系の急流による水車精米」がある。
六甲山系と海までの距離は非常に短く、その平均斜度は日本一の急流といわれている天竜川よりも大きい。
この急流を利用して、夙川で水車精米が行われるようになり、酒の生産量が大幅に増えた。
まず、当時つかわれていた足踏み精米を、六甲の急流を利用した水車精米にかえた。これで寒造り集中化に必要な大量精米(1日10石)が可能になった。あわせて精白度の上昇(精白度数8分が幕末には3割にまで向上)によって質のよい芳醇な寒造り酒への道がひらけた。
西宮市サインパネル 「宮水と酒文化の道」より
さらに、丹波杜氏により仕込技術が改善された。酵母菌の経験的な改良によって、短期間で「もと」を仕込むとともに、じっくりと「もろみ」を熟成できるようになり、一日の仕込み量の増大と品質の向上との両立が可能になった。
西宮市サインパネル 「宮水と酒文化の道」より
生産用具である大桶の大型化が、仕込量の増大をささえた。灘酒では1仕舞あたり18石のもろみを用いた。沸きを考慮すると30石前後の大桶(他の酒造地では20石程度)が必要だ。また、容積の増大と同時に、各作業に用いる専門の諸道具も生み出された。酒造技術は、このような周辺技術の発達と足並みを揃えて進歩したのである。
大量に生産された酒は吉野杉の樽につめられて、大消費地の江戸に送られた。
吉野杉の採用も灘酒の品質向上をささえた。樽はいうにおよばず、酒造道具の大手をしめる桶類をはじめ、他のもろもろの小道具にいたるまで、その用材は杉、とりわけ品質第一の吉野杉であった。
杉を用いたのは、杉の木香が酒味に微妙な影響を与えるからである。江戸への途上、灘酒は遠州灘の荒波にゆられて杉香をつけて、江戸到着のころには酒樽に水分が吸収されて濃度を増し、酒そのものをコクのある銘酒に変えたとも言われている。
西宮市サインパネル 「宮水と酒文化の道」より
そして「樽廻船」に大量に積まれて、江戸に出荷された。
これを「下り酒」と呼んだ。
今回は西宮市が設置する銅板パネル「宮水と酒文化の道」の記述から、江戸時代を中心に灘五郷が一大酒産地となった背景について簡単に説明をまとめた。
昔の写真 西宮市歴史資料チームおよびにしのみやデジタルアーカイブ提供