第23回選抜高校野球大会準優勝の鳴尾高校野球部の記憶

鳴尾高校野球部

人と人の出会いは本当に面白い・・・・
西宮市内の情報を集めていたら思わぬ出会いを経験することは本当に多いが、今回は「戦後、選抜で準優勝した鳴尾高校野球部のキャプテンは、私の父なんです。」という男性と偶然出会った。
それも、ららぽーと甲子園の『クリエートにしのみや』というトイレの前にある場所で!!
その方は、西宮流の『阪神パークの象が甲子園で応援 県立鳴尾高校』という記事も読んでくださっていた。
そんな偶然の出会いから、当時のキャプテンである今はもう80歳を越したお父様・濱崎健氏の通院に付き添いながら、お父様の記憶を聞き書きしていただいたものと、貸していただいた1993年の第46回鳴高祭・創立50周年記念として新聞部がまとめた冊子「新聞に見る 鳴尾高校の栄光の記録」を元に当時の野球部を少し検証してみたい。

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「父が中学~高校の頃はちょうど学制改革があった時期で選抜高校野球大会も中学野球から高校野球へと変わった過渡期でした。当時、中学は5年制でその上に予科というのがありその上が大学で、成績のいいものは飛び級をしていたようです。」

学制改革に伴い、1948年に第1回選抜高等学校野球大会として開催された戦後の春の選抜。
まだそんな戦後の過渡期だった1951年、その当時甲子園球場から一番近い公立高校だった
兵庫県立鳴尾高校の創部6年の野球部が晴れて県の代表として甲子園球場の土を踏むことになった。

平安は当時、野球の強豪として名門だった。
この森さんという方は顔も厳つかったようで、軍隊式でのかなりのスパルタ練習を選手に強いた監督だったようだ。
「練習中に森さんがくると『おーい森さん来たぞー!!』と皆が声をかけあい必死で声出しをしたと言います。ベースランニングの時は、選手が周回をごまかそうとしても森さんは石を積んで数えており、怠けることもできなかったとか。」

ところが、試合の前日まで厳しい練習を課された選手たちはヘトヘトで、とうとう15連敗。。。。。
その状況を見かねた後援会の方が森さんを辞めさせたところ、自由になったため選手たちは息を吹き返し、なんとそこからは連戦に次ぐ連勝で、ついに秋の県大会で優勝することに!
「しかしキャプテンが優勝の報告をしにいくと、森さんはそのときすでに他界されていたとか。実は森さんは、結核かなにか大病を患っておられた体を押して教えにきておられたからこそ、まさに命がけの指導だったようです。」

「鳴尾高校は2年連続で春の選抜に出ており父が高3の年は準優勝、翌年は準決勝で敗退してますが、実はその1年前が最も強かったといいます。」

ただ、その年は鳴尾高校の評判がよくなかったとかで出れなかったとか。。。。。
それだけにきっと、学校や地域は大いに盛り上がった1951年だったことだろう。
この頃の多くの野球部の実情は、普段の練習はキャプテン主導で行われ、監督は甲子園出場が決まってから雇われ監督がくるというパターンが一般的だったようだ。

「ゆえに父は、甲子園にでれたのはほんまに森さんのおかげや!!と言ってます。」

その当時は硬式ボールはとても貴重で、キャプテンだった濱崎さんは自分の打撃練習は後回しにして他の部員に打撃練習をさせていて、そのため県大会では主将で4番をだったのに肝心の甲子園であまり打てなかったと、今でも悔しい思いを息子さんには吐露されているようだ。
鳴尾高校野球部
< 鳴尾高校新聞部資料より>

鳴尾高校は夕立荘に宿泊していたが、雨に祟られ試合が3日も延びるという事態になり初出場の生徒のモチベーション管理は相当大変だったようで、当時の新聞記事を読むと気分転換に1日家に帰らせたということもあったようだ。
こうして迎えた1回戦だったが、鳴尾高校の打撃は好調のカンカン打ちで、野武(ノブ)貞次投手がノーヒットノーランを記録している。

「しかし野武さんは早くに亡くなられており、私の祖父と同じ鳴尾の霊園にお墓があり、昭和44年ごろはもうすでに亡くなられてたように思います。祖父の墓参りの時には、父は必ずここによって水をあげておりました。」

校旗と笛の3000人の鳴尾高校応援団(新聞の記述より)を率いた袴姿に赤襷のいでたちの応援団長の活躍の様子も新聞に記載されている。

「決勝戦は9回表2アウトまで勝っていたそうです。そして記録には味方のエラーと中田投手の暴投で逆転負けとなっていますが、ファーストから見ていた父の目には確かに中田の3塁へのけん制が暴投といえば暴投だが取ろうと思えばとれた球に見えたようです。3塁手の藤尾(後、巨人のキャッチャー藤尾茂)が緊張していて後逸してしまったのだと父は言ってます。」
鳴尾高校野球部

< 鳴尾高校新聞部資料より>

翌朝の新聞には大きな文字が躍った。『満場 唖然』『運命の悪牽制』『鳴尾 無死満塁二度逸す』
最後はあっけない幕切れとなったようだが、三回と八回にあった無死満塁の好機を逃したことで厳しい口調の当時の新聞記事も見られる。しかし、初出場で準優勝という快挙に、その健闘をたたえようとパレードの沿道には多くの市民が集まり万雷の拍手で迎えた。

「父は優勝できなかったことがすごく悔しかったようで、準優勝パレードの時も泣かずに我慢して準優勝旗をかかえて耐えていたが、家に帰り兄に一言何か言われたときに、一気にぶちきれて家の壁に大穴を開けたそうです。『野球は負ける方があるから好きやない』といってた父の母親も、さすがに優勝戦だけは見に行ったようですね。」

準優勝旗をもってるのがキャプテンの濱崎健さん

残念ながら準優勝だった鳴尾高校だが、後世まで鳴尾高校を大いにアピールすることになった事件がある。なんと甲子園球場に、応援団長が当時の阪神パークの象にまたがってやってきたという。関連記事はこちら⇒
しかし参考資料としていただいた新聞記事にもこの象の件を書かれた記述はなかった。さすがに、あまり表沙汰にはできなかったということだろうか???

「この一件は父をはじめ選手の誰も知らなかったようです。」

「ちなみに父は、関西学院大学に野球ではいれるということで練習まで参加していたのですが結果的には実現しなかったので、息子の私が関学中学部に入ったことでその無念を晴らしたと喜んでくれました。」
濱崎さんの息子さんが関学高校の野球部時代「PL学園ゆうても同じ高校生やからな・・・」とたとえ相手がどこであっても気後れするな!と激励していたというお父様のお話も伺った。「父にあったのは一貫して負けん気です。」

甲子園球場のすぐ東にある夕立荘は、今では東東京の学校の宿泊所となっているが、この1951年に鳴尾高校が宿泊したのが高校野球とのつながりの最初っだったという。
西宮の高校にとって『近くて遠い』と言われる甲子園球場だが、この記事を書いている2017年の第89回選抜高校野球大会は西宮の報徳学園が県代表となった。全国で約4000校の中から選ばれし32校。今年はどんな戦いが見れるのだろうか??

県立高校の甲子園出場への道は険しいとは思うが、「たとえ相手が名門高校の選手であっても同じ高校生なんだ!」という往年の名門・鳴尾高校野球部の濱崎健氏の言葉が野球部の生徒に届けばいいなぁと思う。

最後になりましたが、様々な資料や写真をご提供くださった濱崎健様とそのご子息に深く感謝申し上げます。
濱崎さまご提供の『1993年9月19日 第46回鳴高祭「創立50周年記念室」新聞部資料』とお父様からの聞き取り資料を参考にさせていただきました。

関連記事:『阪神パークの象が甲子園で応援 県立鳴尾高校』の記事はこちら➡

甲子園球場の歴史や周辺情報など、甲子園関連の記事はこちら➡

投稿日時 : 2017-03-05 23:05:54

更新日時 : 2024-06-22 09:26:49

この記事の著者

編集部|J

『西宮流(にしのみやスタイル)』の立ち上げ時からのスタッフ。
日々、様々な記事を書きながら西宮のヒト・モノ・コトを繋ぎます。

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