2024年5月3日、享年68才で亡くなられた武地秀実さんのご冥福を心よりお悔やみ申し上げます。
ほんとうに突然にお別れの日が来てしまい、いろいろ活躍していた彼女があまりにも身近に居たことで、きちんと取材をして記事としてまとめていなかったことを悔いている。
なかなか筆が進まずに一ヵ月がすぎてしまったが、改めて可能な範囲でまとめ、西宮流の記事の中に残しておきたいと思う。
私の中にいる笑顔の彼女の記憶をたどりながら…。
西宮・浜脇のふるさとづくり「えびすかき」から「人形浄瑠璃」へ
今年(2024年)も6月1日に浜脇小学校の体育館で~西宮・浜脇のふるさとづくり「えびすかき」から「人形浄瑠璃」へ~が開催された。
チラシを見ると、第16回とある。こんなにも長く、地域の一つの行事として続いてきたんだと改めて思う。
もちろんこれも、人形芝居えびす座・座長武地秀実さんの一つの大きな功績の一つだ。
申し訳ないことに、ここ10年ぐらいは見に行ってなかった。
改めてチラシを見て、プログラムがとても充実してきている事、協賛や協働に多くの団体名が名を連ねていることに彼女の人を巻き込んでいく力を感じている。
人と人の出会いは不思議な化学変化を起こす。
彼女の笑顔は、その化学変化をこの街のあちこちで起こし続けて来た。
最近は入退院が多くなり、昨年もこのイベントに彼女の姿はなかったが、今年は、彼女の相方で囃子方だった松田恵司さんが引き継いだ。
この日の人形芝居えびす座のえびす舞の舞台後半では、武地さんの声が流れ、それに合わせて舞う松田えびすに、会場には温かい応援の空気が流れていた。
「武地さん!あなたの大切な相棒の松田さんが、あなたの意志を引き継いで太夫を演じておられましたよ!!そしてこの継承の現場にいた中学生たちをはじめ地域の人たちからも、継続の大切さ・地域の伝統文化の大切さに言及する言葉がいっぱいありました!!あなたが撒いた種はしっかり育っていますよ!!」
地域情報誌ともも代表の武地秀実さん
私が武地さんを知ったのは、地域情報誌とももの編集長としてだった。
出会った頃はまだ、人形芝居えびす座・座長ではなかった。
彼女が中心になって関わっていた朝日新聞系のミニコミ誌が休刊となり、それをきっかけに西宮/芦屋をエリアとする月刊誌「ともも」を2001年にスタートさせた。
その後、ウェブメディアを始めた私には「紙は大変よ…」とよく言っていたが、いつも楽しそうだった。
月刊誌から始まっていたから、企画や取材、営業などほんとに大変だったと思う。
巻頭を飾る人や出来事なども、丁寧に取材し、彼女の感性が誌面から滲み出てる情報紙だった。
だから「ともも」は愛されていた。
ここ数年は、お互いにやめるタイミングをはかっているような会話も多くなっていたが、彼女の言葉が病から来ているとは思ってもいなかった。
私達・西宮流(にしのみやスタイル)が10年間、事務所としても使っていたららぽーと甲子園の情報発信スペース「クリエートにしのみや」の企画運営を卒業すると決めたのは昨年(2023年)2月だった。
いよいよ、最後の1ヵ月となった頃(2024年3月)、とももが発行休止を決定したことを知った。
この時期、彼女が入院しているのは知っていたが、同じタイミングで大きく舵を切ったことに驚いた。とももは実に23年、195号の歴史を作っていた。
丁寧に取材した地域密着の情報を発信したい!という彼女の思いで作られた媒体はあたたかかった。
きっと、誰もを笑顔で包み込み、人を元気にさせる力を持っていた彼女に取材を受けた人は、そのままファンになってきたのだろう。
「転勤族の子どもだったので故郷が無いようにずっと思ってきたんだけど、今では西宮が故郷だと思う!!」と言っていたが、彼女は自ら故郷を作り上げた。
人形芝居えびす座・座長の武地秀実さん
とももの事務所を西宮中央商店街の一角に構えていた縁で、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた中央商店街の理事になっていた時期があり、中央商店街の盛り上げにも大きく貢献してきた。
今でも続いている「大道芸まつり」は、商店街盛り上げのイベントのフリマだったようだ。
まちづくりにも大きく寄与してきた彼女だったが、西宮神社のお膝元の商店街として地域の特徴を活用しよう!という方針の中、室町時代ごろから戎信仰を全国に広げていった「傀儡師(くぐつし)」、産所町に像も設置されているを「傀儡師」を取り上げることになった。
これが「人形芝居えびす座」の始まりであり、彼女がえびす舞にのめり込んでいくきっかけとなった。
しかし長く途絶えていたえびす舞の復興は、かなり大変だったようだ。
いろいろ探されたようだが、口伝の部分も多く、残っている文献は少なく「人形芝居えびす座」のえびす舞は彼女の創作も多いという。
えべっさんが鯛を釣り上げる場面で、鯛が釣れるまでに実にさまざまなものを釣り上げるが、それもその時々の世相などを反映させていた。
彼女は口上の創作などだけでなく、自ら狂言なども学び声や表現に深みを出し、えびす舞を西宮の伝統芸能として見事に復活させた。
若い時にはダンスをしていたという彼女は、身体表現が本当に好きだったのだろうと思う。
えびす舞は、彼女の生きがいでもあったのだろう。
入退院が多くなっていった時でも、外泊や退院日を毎月10日の西宮神社でのえびす舞に間に合うように予定を立てていたようだ。
時には、車椅子での上演もあったようだが、どんな上演であってもいつも彼女の笑顔は輝いていた。
えべっさんと一体になれることを実感していたのだろうか?
えべっさんがお酒の入った杯を飲み干す時の彼女の笑顔が大好きだった。
長期離脱からの復活の時、彼女自身が書いていたコメントがある。
「感無量でした。えびす舞が私にとって最高の幸せだとよーく分かりました。」
彼女がえびす舞を始めた頃、「西宮でお祝いの席にはえびす舞がある!という街にしたいよね!!」とよく話した。
♪♪〜「えべっさんがやってきた!幸せ配りにやってきた!西宮からやってきた〜〜」♪♪
彼女は、自分の力でえびす舞を西宮の宝物の一つに仕上げていった。
開拓し、広げ、繋ぎ、継続してきた武地秀実さん
メディアの主宰者であったが、多方面に活躍していた彼女は取材される側でもあった。それほど活躍の場は広かった。
今でも続いている中央商店街の大道芸まつりも、中央商店街理事だったころに始めたマルシェが始まりだった。
マルシェのライブコーナーが大きく育ち、今では「西宮酒ぐらルネサンスと食フェア」と連動し街角ルネサンスとして「大道芸まつり」として実施されている。
彼女は、さまざまな肩書きも持ちながら、いつも笑顔で分け隔てすることなく人と接し、いろんな人たちを繋いで新しいことを始め、それらを見事に定着させていった。
中央商店街の理事として始めた人形浄瑠璃の元にもなった「えびすかきの復興」は、今や西宮の文化として蘇り、また浜脇地区の町の特徴として中学生など若い人たちにも引き継がれている。
彼女が亡くなった後になって、7年前からの闘病だったと知った。
自分の病とも向き合いながらの日々の中、最近では西宮神社で見つかった獅子頭で獅子舞の復興にも力を尽くしていた。
「あの華奢な体のどこからあのパワーが出てくるのだろう??」よくそう思って見ていたが、本当に東奔西走していた。
飯田市の人形劇のイベントなど国内だけにとどまらず、フランスやタイでえびす舞を舞い、そこでの知見をまた吸収していった武地さん!
日本国内の「えびす神社」を自ら訪ね歩いてえびす舞を奉納した武地さん!
いつでも決してあきらめることなく、すべてをあの笑顔で包んで進んでいった武地さんが造った道には、今それぞれに新しい力がしっかりと芽生えている。
武地さん、私たちにたくさんの思い出を残してくれてありがとう!!