明けましておめでとうございます。 この名塩雑時記を読んで下さるみなさまには、いつもご多忙の中、拙い私の文章でも、いつもご拝読いただいてることに、この場を借りて感謝申し上げます。
この名塩雑時記ですが、去年から自分がやると名乗りを上げつつも、名塩に関する詳しい記事をひとつも書けていませんでした。 しかし、正月なので重い腰を上げることにしましたので、今年も引き続きよろしくお願いします。
名塩には、176号線沿いに、旧丹波路街道の一部が残っています。 ここは日影が多く、道沿いに名塩川があり、夏でも少し涼しい所です。 以前、”表情豊かな名塩川”でご紹介させていただいた、とらまが淵がある通りで、時期が来ると蛍が見られる場所です。
ここより少し先に、かつて馬場儀温泉と呼ばれていた小さな旅館の跡があります。 昔、生瀬から道場の間の旧丹波路街道には、主要な駅付近に旅館があったそうですが、次の駅までの距離が長いので、その中間に小さな旅館がいくつもあったそうです。 地元の農家が、名塩と言う土地柄、本業だけでは食べていけないので、兼業でこうした旅館を経営をする場合がありました。 このような旅館は、駅前の旅館と比べると宿泊費が安いので、荷車曳きや雑貨商、お伊勢参り等の観光客にも人気があったそうです。
それにしても、宝塚や有馬ならともかく、名塩に温泉があったのかと不思議に感じる方もいらっしゃるかも知れませんね。
なんと、名塩の大西町には、かつて低温の塩類泉が湧いていたというのです。 これが、この馬場儀温泉のことでしょうか(ちなみにここは大西町です)。 その温泉は、肌荒れに効く内塩湯(うちしおゆ)であったことから、この鉱泉が内塩(ないしお)と呼ばれ、それが転じて名塩と言う地名になったという説があります。
また、近隣の有馬温泉で有名な有馬は、昔、塩原山と呼ばれていました。 名塩は、かつて、その有馬の所領や、有馬郡の中に所属していた時代がありました。 その事から、内塩と言う地名が起こったそうです。
内塩と言う地名が初めて世に現れたのは、1456年。 ”大日本地名辞典”という古い文献の中に、その名があるそうです。 ”摂州有馬郡内塩荘”と記載されているとの事。 内塩と字が違うものの、語音が似ていることから、これは現在の名塩の事ではないかと専門家は指摘しています。
室町時代には、各地で、武士達により、土地の所有者がちょくちょく交替されたり、時には強奪されたりしていたので、その際に、正確な地名の表記や呼称名がぐちゃぐちゃになっていたそうです。 ちなみに荘とは、貴族の私有地のことですが、それにつけられた地名はあくまで、その持ち主の自称だそうです。
それなら、この内塩がかつての名塩であると言い切ることはできません。
しかし一方で、この内塩が名塩に転じたという説は、全くの誤りであると指摘できるだけの証拠が、現在まだ見つかっていないのです。
参考文献 “名塩史” 財団法人 名塩会 編 ”名塩歴史散歩” 名塩探史会 編