[西宮ペディア] 苦楽園の開発と明礬谷温泉 – 西宮流 (にしのみやスタイル)

苦楽園から隣の芦屋市にかけての山麓地帯に「八十塚古墳群➡」が発見されている。この付近に住居跡等の生活環境が発見されていないことから、近隣地域の墓地であったのかも知れない。
またこの辺りは徳川時代の大阪地区城石採石場が広がっているが、人里離れた山の中で狐や狸の楽園であったと思われる。
この静かな森を開発するきっかけとなったのが、「明礬谷温泉」の存在であった。大社村誌によれば、1906（明治39）年に「鳴尾村の辰馬與平氏」らが中心となり、数名の地主たちで「明礬谷保勝組合温泉浴場」が結成され、道路開削や温泉浴場の新設などをおこなった。しかし、たどり着くためには山篭に乗らねばならないなど交通機関が未発達で、折からの不況もあり来訪者は少なかった。

本格的な開発は、1911（明治44）年、大阪の実業家、「中村伊三郎」がこの地に別荘地の開発をおこなったことに始まる。神戸から大阪へ戻る途中、六甲山麓にさしかかったところで、車中の外国人が「この付近の景色は美しい。山の上に家を建てら良い眺めであろう」と話していたのがヒントとなり開発をおこなったとのエピソードた伝えられている。道路や水道などのライフラインを私財を投じて整備したが、当時は人力が頼みゆえ、大変な事業であったと想像される。
「苦楽園」という名称は、開発者の中村伊三郎が家宝としてある瓢箪・「苦楽瓢」から苦楽園と命名したという。

同じ頃、「兵庫県知事の服部一三」が六甲山脈にラジウム泉があると予期、1913（大正２）年に技師を派遣し、天狗嶽といわれる地点で泉源を発見した。ここから温泉を引いて共同浴場を開設した。これが発展の起爆剤となった。
中村氏の人脈は広く、財界人から華族まで富裕層が土地を購入し、別荘を建てた。「大隈重信」や「犬養毅夫人」も苦楽園へ足を運んだ。竹の棒に籐椅子をくくりつけた神輿のような篭に乗って山を登ってきたようで、移動は大変だったと想像される。その篭を担いでいる男たちのハッピには「苦楽園温泉」と記されている。

大正初期の苦楽園は、邸宅のみならず、三笑橋を中心に共同浴場と旅館やホテルが建ち並び、山上プールや運動場まで揃う「総合温泉リゾート地」であった。

1919（大正８）年に個人経営から西宮土地株式会社の経営に移行し、温泉や旅館の運営により力を入れ、客の絶え間がなかったほど繁盛した。六甲ホテルでは毎週西洋料理の講習会が開催されて阪神沿線の夫人令嬢が集うなど、社交場としても大きな役割を果たした。
「谷崎潤一郎➡」が関東大震災から逃れて関西で初めて身を寄せたのは苦楽園で、萬象館に滞在し、毎日共同浴場でラジウム温泉に浸かっていたそうだ。「与謝野晶子➡」も最愛の夫・鉄幹を失った翌年、1936（昭和11）年に苦楽園を訪ね、その眺望に『武庫の山君なき世にも遠かたの　打出の浜の見ゆる路かな』という歌を詠んでいる。

この頃はまさに「阪神間モダニズム➡」の時代で、電鉄会社や土地会社による行楽地や住宅地、あるいはこれらをミックスした保養型住宅地の開発が盛んであった。
しかし、行楽地としての苦楽園は、致命的なマイナス点を抱えていた。それは交通の便である。前述のとおり、交通機関は人力車や馬車、せいぜいタクシーだったため、輸送力は限られていた。
1925（大正14）年になると阪急夙川駅から甲陽線が開通し、苦楽園口が開設された。阪急は直営バスを開業し、苦楽園口駅と苦楽園を結ぶ乗合自動車の経営に進出している。

やがて1938（昭和13）年に、台風による水害で苦楽園は大きな打撃を被ることになる。天災によって繁栄の礎のラジウム泉が止まってしまったのだ。世の中も恐慌のあおりも受け、戦争へと歩むようになっていたこともあり、旅館やホテルも廃業に追い込まれてしまった。

保養地や行楽地としては衰退してしまった苦楽園。しかし、豊かな緑と清らかな空気は失っていなかった。苦楽園はやがて、住宅地として復興していく。特に戦後、高度成長やバブルにより住宅の開発が進み、俳人の山口誓子や作家の黒岩重吾➡など文化人にも愛され、阪神間屈指の高級住宅地として君臨。今も静かに「楽園」の輝きを放っている。