<鳴尾の水争い>
天正年間、鳴尾村では大旱魃に見舞われ、瓦林村から水を引こうとして申し入れるが、瓦林村も水不足で話し合いで解決できず、鳴尾村の人々が瓦林村に無断で枝川の川底を掘って取水した。
このことがきっかけで両村の百姓による乱闘騒ぎに発展し、豊臣秀吉臣下の片桐且元の裁きで、鳴尾村への用水供給が認められた代わりに、事件を起こした罪として鳴尾村の25人、瓦林村の26人が死罪となった。
奉行に聞かれて鳴尾の農民は「命より水が欲しい。」と訴えたと伝えられている。
その時の彼らを義民として、北郷公園に『義民碑』が建てられた。
実は枝川>>は弘治3年(1557)の大水害で武庫川>>が氾濫したあとにできた武庫川の支流。
この天井川の枝川ができたことで、鳴尾への水の供給は反対に厳しい状況になり、枝川の川床を堀りすすめてトンネルを掘るという暴挙となった。
北郷公園から甲子園筋(昔の枝川)をまっすぐ西に渡ったところの住宅地の間に細い通りがあり、そこを西に抜けたあたりの新堀川>>に「西宮市文化財 鳴尾北郷義民 樋門跡」と書かれた小さなプレートがある。
この北郷公園の碑とは別に、義民顕彰碑が八ツ松公園に建てられており、亡くなった25人は浄願寺に北郷開樋殉難者之碑として祀られている。
西宮市文化財に指定されている。