ツーリズム西宮楽らく探見隊が最も多くお客様を案内しているガイドコースが「酒蔵コース」です。
このコースのメインにガイドしているのは、毎月の無料ガイド(現在は新型コロナ感染騒動で休止中)でも案内している、宮水井戸地帯です。
今回は市内に25か所設置されている銅板のサインパネル「宮水と酒文化の道 酒香る 西宮郷・今津郷」の内容を参考に案内したいと思います。
ちょっと説明が長くなっていますが、パネル文書の一部をそのまま転載しました。
宮水発祥の地碑前のサインパネル 「宮水と酒文化の道」
酒香る 西宮郷・今津郷
室町時代に「西宮之旨酒」とうたわれたこの地の酒造りの背景には、日本百銘水に選ばれた宮水があり、今でも息づいています。
宮水発祥の地碑前の説明では
「酒造りに都合の良い宮水は、1840年灘の山邑太左衛門がその効果を発見したと言われています。魚崎郷と西宮郷で、水以外を同じ素材、同じ製法で酒を造ったところ、酒の味が違うことから“宮水の価値”を発見したとされています。
西宮では、この宮水を使って何百年も酒を造り続けてきました。宮水の成分は、鉄分がきわめて少なく、カルシウム、カルウム、リン等の含有量が多いことから、麹や酵母の成長を助けています。」
北から見た宮水庭園 南からみた宮水庭園
宮水庭園はかつて大関・白鹿・白鷹のそれぞれの宮水井戸があった場所です。「宮水を汲み上げる多くの井戸は、この地域独特の風景をつくりだしています。宮水庭園は、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた井戸を庭園として整備したもので、兵庫県まちなみ賞と西宮都市景観賞を受けています。」とサインパネルに記されています。
産地と大消費地江戸を結ぶシステム 灘
江戸時代には西宮郷を含む灘地域の日本酒は名実共に日本有数の銘酒の産地となりました。その理由はサインパネルに「「灘」とは、東は武庫川河口から、西は現在の三宮駅の東、生田川の近くでの、沿岸約24キロメートルの地域の総称である。この地には、①寒造りに適した六甲おろしの寒風 ②酒造用水に最適な宮水 ③近接地の良質な播州米 ④六甲山系の急流による水車精米 ⑤海上輸送に便利な海岸地帯 ⑥勤勉な丹波杜氏の労働・技術力 ⑦樽・桶に使用する吉野杉の良材、 の名酒を生む7つの要因が揃っていた。」と記されています。
産地を育てた二つの勝手造りの時代
「江戸時代の酒造りは、幕府や各藩による許可制である。酒造量(酒造米の石高で表す)を示した許可証「酒造株」をもった酒蔵だけが酒を造った」
コメの生産量が少なくなると酒造株度を強化し、米が豊作で余ってくると勝手造り令を出し規制緩和を行った。「酒蔵通りの風景は、過去の歴史の蓄積である。江戸幕府の様々な政策の中で、地元の資源と技術、そしてたくましい商人魂が織りなして、現在の酒蔵が出来上がった。特に二度にわたる「勝手造り」は自由な環境の中で創造的な展開を行った貴重な時代であった。」
産地を生んだ宮水
おいしい酒には、良い水が不可欠だ。酒造り全体では白米量の約2~2.5倍の水量を使用するので、これは当然のことと言える。西宮のうまい水=「宮水」は、名酒と産地を育んできた根幹である。
江戸時代の酒は、「秋落ち」いって夏を越すと味が悪くなった。西宮の酒だけは秋を迎えてかえって味が冴え、「秋晴れ」と讃えられていた。西宮の酒だけになぜ「秋晴れ」が起きるのか?という謎を追求したのは、魚崎と西宮に蔵をもっていた酒造家・山邑太左衛門。天保11年(1840)、山邑は仕込み水の違いが原因であることを発見した。これ以来、灘の酒造家はこぞって宮水をもちいるようになった。当時は、水屋という専門業者がこの井戸端に展示している『はね釣瓶』という道具を用いて水をくみ、宮水を各地の酒蔵に供給していた。
宮水の危機と保全
これまで宮水は何度も危機を越えてきました。産業化の波の中での大工場の進出、都市化の動きの中での高層ビルの建設などです。これらを食い止めてきたのは、西宮郷・今津郷を含む灘五郷の努力です。現在まで宮水を絶えさせないために、多くの努力がはらわれてきました。地下水の汚染防止のために、下水道施設の建設に対して資金的協力を行い、地下水源を切ってしまう掘削や地下建設を抑制するために、共同で地域の土地を持ち合うなどの策を講じてきました。
宮水の価値は、数千年の大地の活動、その価値を発見し活用してきた知恵、守り抜く努力等が積み重なったものと言えます。今後もより一層幅広い協力を得て、西宮の天然資源である宮水を後世に伝えてゆかなくてはなりません。
自由な風土が育んだ人形浄瑠璃
西宮は酒造りの町であると同時に、人形浄瑠璃のふるさとでもある。戦国の世に終わりがみえ、芸能にこころをはせるゆとりがうまれた室町末期、西宮に新しいもの楽しいものをうけいれる自由な風土があった。当時、戎神社・広田神社の祭礼には、人形を使って社の縁起・功徳を人々に宣伝する傀儡師(くぐつし)があらわれ人気をあつめていた。永禄11年(1568)には、西宮の「ゑびすかき」が宮中でも人形操りをおこない好評を博したとの記録がのこっている。この西宮の人形操りが、当時琉球より渡来した三味線、また浄瑠璃姫物語の語りものとも結ばれて人形浄瑠璃が成立したのである。
古典的な形で今も残る宮水井戸 多くの酒蔵が利用する共同井戸
宮水井戸が多く点在する宮水地帯には近代的な宮水井戸が多くありますが、写真に示すような昔からの典型的な白鷹宮水井戸も見られます。また個別の宮水井戸を持たない酒造会社向けの共同井戸もあります。
散歩がてらに市内をサインパネルを読みながら回ってみるのも良いかと思います。