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広田神社と神功皇后

広田神社と神功皇后

 「日本書記」によると、広田神社は第14代仲哀天皇の后である神功皇后が山背根子の娘、葉山媛に廣田大神を祀らせたことに始まると言われています。
 神功皇后は神の教えに従い新羅へ出兵します。このとき神功皇后はお腹に第15代応神天皇をやどしていたといわれています。これに従って新羅国を平定した後、仲哀天皇の死後、天皇の皇子・忍熊王が戦を起こそうとしているとの知らせを受け難波の津を目指して船で戻ろうとしました。ところが船が海中をグルグルまわり進まないので、仕方なく務古水門に船を戻した所、天照大神より「われの荒御魂を皇居に近づけてはならない、御心廣田国におらしむべき」との託宣に従い、葉山媛に祀らせたといわれています。
 古代から中世にかけて、霊験あらたかな神として朝廷の崇敬を受け、平安時代初期に著された「延喜式」神名帳には「官幣大社」「名神」として記載され厚遇されていました。

 この当時の西宮は現在の阪急神戸線の辺りまで内海で、当時の船が500艘も停泊できる程でした。
 そのために最初は高隈原(五月丘あたり)に創建されたと言われていますが、南北朝時代の前後に御手洗川の河畔に移り、さらに享保年間に洪水の危険をさけて現在地に移ったといわれています。

 現在西宮神社の中にある広田神社の摂社「南宮神社」は、浜方に住む人々が海を渡ってお参りするのが難しいため、容易にお参り出来るように創建されたと言われています。
 一般に神社は南向きか東向きに建てられますが、南宮神社は広田神社のある北の方を向いて建てられています。
 のちにこの地に蛭子様が祀られて西宮神社となり、現在はその敷地内に鎮座することになっています。

 昔は京の都から九州大宰府に続く街道がありました。 若干ルートは違いますが、現在も同じく西国街道とよばれています。 その当時の街道には所々に旧西国街道と標識が立っていますが、武庫川からこの近くまで来て南下し西宮神社の方へと続いていました。昔は武庫川を超えると前方に廣田神社参道の松並木が見えたそうですが、それが現在再整備されました参道です。

9月に入ったばかりの猛暑が残る日、西井宮司さんを訪ね、広田神社に纏わる貴重なお話を沢山お聞きしました。一度には紹介出来ないので、機会を見て、何度かに分けて紹介させていただきたいと思います。
 宮司さんは写真でも伺えるように非常に温和な人柄で、やさしくお話をして下さいました。小さい頃田舎の村の鎮守の森で遊んだ事を思い出しましたが、最近は境内で子供さんの姿を見ることが少ないと言われた言葉が・・、少々寂しくなりました。

西宮の案内は「ツーリズム西宮楽らく探見隊」に、お待ちしています。

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