甲東文化財保存会のメンバーを中心とした『甲東村誌稿本』発行委員会が、2025年6月『甲東村誌稿本』を発行した。
『稿本』とは、下書きとか草稿のことを言うようだ。
今回、発行したての本を寄贈いただき、その経緯等の珍しさもあってこの本の存在を記事にしておこうと思う。
なぜ『稿本』なのか?
今回発行されたのは「村誌」ではなく「村誌稿本」となっている。
こうほんとは、下書きとか草稿という意味のようだ。
なぜ、わざわざ「稿本」として発行されたのか??
実は、この下書きは1941年ごろから1943年ごろまでの間に作られたものだそうだ。
合併を機に、村誌としてまとめようという動きだったのだろう。
1941年というのが、当時の甲東村が西宮市に合併された年で、まさに、その年の12月は日本が第二次世界大戦に突入した年になる。
甲東村が西宮市に編入されたのは1941年2月11日。
古い言い方で言うと「紀元節」・・・日本の建国を祝う大きなお祭りの日を合併の人したのは意識的であっただろうと言うのは、発行された本の最初にも書かれている。
そして、その大きなお祭りの年の12月には第二次世界大戦へと突入していった日本の事情もあり、発行を準備されていた甲東村誌が80年以上の年月を経て今回上梓された。
今、振り返って調べて書く村誌とは違い、当時の人がまとめた原稿が日の目を見ると言うことは、大きな意義があると思う。
旧仮名遣いの手書きの原稿や表現などと格闘された発行委員会の方々の努力もあって、戦前の甲東村がわかる『甲東村誌稿本』が発行された。
発行への経緯と工夫
巻頭の「発行にあたって」を書かれた甲東文化財保存会会長の立垣氏の文章の一部から見ると、乕松喜太郎太郎村長や村会議員の間で「甲東村」の名前や村内地理、村民生活の沿革をくわしく記録によりて伝えたいとの希望により編集委員会が組織され、甲南大学の渡邊雄一郎、烏越憲三郎、石阪春生各氏に編集委員を委嘱し1943年ごろには草稿が出来上がったようだ。

ただ戦争の影響は大きく、編集委員が亡くなったり物資不足などもあって発行されなかったようだ。
1955年市政30周年を機に、発行に向けての動きはあったようだが、戦後の新しい世の中では再編集しないと発行は難しいだろうと言う判断のもと、補正されたようだがこの時も発行まで漕ぎ着けることができずに、原稿はそのまま西宮市に保管されていたという。
2018年に保存会の役員でその原稿を閲覧し「先人たちの熱意と努力、郷土愛が永遠に日の目を見ないよりは、あくまで戦前に書かれた当時のものとして、できるだけ当時の表現を尊重しつつ上梓しよう!」と言うことになったようだ。
旧仮名遣いの、当時の言い回しなどは検討しないといけないところも多かったようだ。
今回、翻刻で来たもの以外にも資料があったようだが、それらは整理までできなかったようで存在のみを記載したという。
考え方や表現など、当時と大きく違う現在に「できるだけ当時のまま」にするのはきっと葛藤もあったことと思う。
『甲東村誌稿本』の主な内容
第五編で構成されている『甲東村誌稿本』は、地誌/沿革/近世の村民生活/産業経済/教育からなっている。
嫁入り前後の儀式や出産の風習などが5〜6ページにわたって詳細に書かれていたりもして、それまで長らく村として生活してきたことが西宮市になるとうきっかけに、当時の人の甲東村への愛着を感じた。

畑が多かったこのエリアにおいて利水は重要だったようで、百間樋など水に関する記述も多くのページを割いている。
農作物の変遷では、古くからあった綿や菜種の紹介に続き「一般の農村とその趣を異に趣を異にしている」として芝川農園の存在やその影響などの記述もある。
完全ではないとは言いながら、当時の記録がこうしてまとめられたのはすごいと思う。