【秋の史跡探訪】西宮砲台を見に行こう!<同行取材>

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西宮砲台 香櫨園浜

史跡「西宮砲台」の特別見学会が、久しぶりに西宮郷土資料館主催で行われた。

2018年の台風21号の影響で、西宮砲台も一部水没し、その後は新型コロナの影響もあり砲台内部の見学会がしばらく中止されていたが、市民の熱い声もあり内部の安全も確認されたということで見学会が再開された。

この日は事前に募集された40人の参加者が、近くの西波止会館で西宮砲台の話を聞いた後、西宮砲台に向かった。

古文書から見えてくる「西宮砲台」

この日はまず「古文書から見えてくる西宮砲台」を学んだ。

幕末に、外国からの脅威に対抗するために築かれた砲台(台場)は、全国に1000か所にもなったという。
しかし、その中で西宮砲台のような西洋式の砲台は4か所しかなく、それらは大坂湾の海防のために阪神間に造られた。(和田岬砲台、舞子砲台、西宮砲台、今津砲台)

4つの西洋式砲台の一つの西宮砲台(台場)は、慶応2年(1866)に築造されたが、大砲を据える石堡塔とその周りの土塁が現在も残るのは西宮砲台のみで、さらに図面や資材調達などの資料、築造の日記など多くの資料も残る貴重な文化財となっている。(大正11年(1922)3月8日指定)

様々な資材がどこで調達されたのか?、その基礎工事(くい打ち)の様子がどのようなものだったのか??などが分かる資料があるということも西宮砲台の貴重性を大きくしている。
また、工事の進捗具合などが分かる日記からは、工事にかかわった人々の労働環境や、勝海舟が視察で訪れたことなども分かるという。

4か所に造られた洋式砲台のうち、現存しているのは三菱重工業敷地内にある和田岬砲台と西宮砲台の2ヶ所になっているが、大砲を据える石堡塔の周りの土塁も一緒に残っているのは西宮砲台のみ。
ただ、西宮砲台の内部は明治時代の火災により木造構造物を焼失してしまっている。
三菱重工業の敷地内にある和田岬砲台は、内部が木造2階建という構造をそのまま残しているが、企業の敷地内にあることから見学などはハードルが高い。

資料や写真などは、西宮市のデジタルアーカイブから➡

西宮砲台の内部見学会

築造:文久3年(1863年)~慶応2年(1866年)
「砲台」というのは現在の呼称で、建造当時は全体を「御台場」といい、建物を「石堡塔」その周りを石堡塔外(土塁)と呼び、共に史跡指定対象となっている。
「石堡塔(砲台)」は石積みの円筒形。
外径約17m、高さ約12m、壁の厚み約1.5m。
内部は、木造二階建て。
一階の中央に井戸(大砲を冷やすために水が必須)
2階には11個の砲眼と一個の明り取りの窓があり、大砲2門を据える予定だった。
外郭は、外径約76~77m、堤の幅は約10m、高さ4.55mの円形で北側に出入口。
実際には使用されることなく明治維新を迎えた。
明治17年(1884年)の火災で内部の木造建造物は消失。
明治40年代に阪神電鉄に払い下げられ、ビアホールとして使われた時期もあった。
昭和9年(1934年)の室戸台風の被害の後、屋根の復元工事を行った。
昭和49年~50年にかけて、内部の鉄骨と石郭の補強・外装工事。

北側の入り口から砲台内部へ!!
木造部分がなくなった内部
鉄骨で補強された内部
修復された天井部分
真ん中の井戸とその周りの4か所の石の土台

砲台の周りに残る貴重な土塁

西宮砲台は、砲台とその周りの土塁部分が一緒に残っていることが貴重な文化財となっている。

外郭は、外径約76~77m、堤の幅は約10m、高さ4.55mの円形で北側に出入口。
外郭の一部は、現在の防潮堤の外側になる。

史跡の範囲
お城好きの4年生が砲台を興味津々に激写
砲台の南側には外郭の一部の石が残る。
土塁の石ではないだろうと考えられている謎の石。
砲台の西側は、石の上に砂が盛り上がった土塁が残る
西波止公園にある土塁の石
防潮堤の北側にひっそりと建つ史蹟

写真撮影:黒木 敦朗 

投稿日時 : 2024-10-29 14:21:21

更新日時 : 2024-10-29 20:37:22

この記事の著者

編集部|J

『西宮流(にしのみやスタイル)』の立ち上げ時からのスタッフ。
日々、様々な記事を書きながら西宮のヒト・モノ・コトを繋ぎます。

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