甲山がつなぐ「パールバックと西宮の女性たち」の深いつながり

甲山山頂

2023年5月23日に国書刊行会から「佐川陽子著/パールバックと日本」が発刊された。

この本はパールバックの生い立ちや環境、作家となったきっかけなど、佐川陽子さんが書かれたパールバックの研究になっているが、その中に戦前からの日本人との交流を通して生まれた知日家パール・バックの姿も浮き彫りになっている。

そしてなんと、そこには西宮との深いつながりが書かれていた。

パールバックのプロフィール

もうすでにご存知の方も多いだろうが、まずパールバックとはどんな人なのか?
以下はウィキペディアからの引用。

パール・サイデンストリッカー・バックPearl Sydenstricker Buck、中国名:賽珍珠、1892年6月26日 – 1973年3月6日)は、アメリカの小説家。
南長老ミッション派宣教師の両親と中国に渡り、そこで育つ。
処女作『東の風・西の風』に続き、1931年に代表作『大地』を発表して1932年にピュリッツァー賞を受賞。
『大地』は『息子たち』『分裂せる家』とともに三部作を成す。
1938年にノーベル文学賞を受賞した。

<出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』最終更新 2024年10月23日 (水) 06:49 >

「佐川陽子著/パールバックと日本」の中には、社会運動家でもあったことや、親日家であったパールバックのさまざまな日本人との交流も実名で書かれているが、その中で西宮の連合婦人会との交流があったことがわかった。

甲山の平和塔にあるパールバックの言葉

お椀を伏せたようなポッコリ丸い甲山は、西宮のランドマークでもある。
標高は309m。309を「みわく」と読み換えたりもする。
その頂上に「平和塔」があり、その建立には深い思いがあることは、あまり知られてないように思う。

「パールバックと日本」の中で、この平和塔の横の銅板にパールバックからのメッセージが刻み込まれていることがわかった。残念ながら今はその文字の判別は難しい状態だという。

平和塔は1956年(昭和31年)4月11日に除幕式が行われているが、そこにパールバックの言葉が刻まれた銅板を設置することになったのは、この同じ年の1月3日の朝日新聞に掲載されたパールバックからの「女こそ平和の力」と言う新春メッセージがきっかけだったようだ。

そのメッセージを見た西宮の連合婦人会の桟敷朝子さんがいち早く反応し、その後、パールバックとやり取りしながら、その年の4月11日の除幕式には、パールバックからの直筆の手紙の文面をそのまま銅板に写し設置したと言うからその行動力には驚く。

以下は、「佐川陽子著/パールバックと日本」の中の一節。
<日本からの手紙の日付が1月25日と記されており、バックが早急に返事を書いたことが確認できる。この婦人会の凄さは、これで終わらせていないことである。バックからの直筆手紙をそのまま銅板に写し込んで平和塔の下部に設置したばかりではなく、そのメッセージを、除幕式の会場の上空からセスナ機で投下させたのである。小さなパラシュートが付いた筒にバックのメッセージが入れられ、新聞社のセスナ機が除幕式の時間に合わせて飛来して千五百人もの市民が集う甲山の山頂に投下し、会場は拍手が鳴りやまなかったという。その平和塔は、バックが想いを込めて書いた手紙と共に、現在でも甲山の頂上に佇んでいるのである。>

最近は、平和塔の周りを囲む生垣が育ち、平和塔の横にある説明板なども見えにくくなっているようだが、パールバックから桟敷朝子さんへの返信が写された銅板には下記の言葉が刻まれているようだ。

<平和塔の横に置かれた銅板に転写されたパールバックからの返信>
February 3 1956
Dear Mrs. Sajiki
Thank you very much for your letter of January the 25th. . I have read it with much interest and sympathy.
All mothers in every country, I am sure , feel as the mother in Japan do. I am glad to hear of the Peace Tower and I hope you will send me a picture of it when it is done. Meanwhile, I shall take pleasure in telling others of the monument.
with best wishes , I am yours sincerely
Pearl Buck

平和塔

甲山の頂上は思っているより結構広い平たい部分が広がっているが、その南側の方に平和塔が立っている。

塔は御影石造りで、北面には「平和への祈りをこめて 一九五六年四月 西宮市連合婦人会」とあり、後の三面にはギリシャ神話の母子像と平和の女神・ヴィーナス像が彫られている。
デザインは画家の伊藤慶之助氏によって描かれ、彫刻家の長谷川雅司氏によって彫られた。

また塔の横には、パールバックの直筆の手紙の文面が転載された銅板と石碑も立っているが、今は生垣で囲まれ正面に扉があるので確認できなくなっているようだ。

パールバックの手紙の文面が転載された銅板 写真提供:郷古達也氏
写真提供:郷古達也氏
写真提供:郷古達也氏

この記事を書くにあたって、改めて西宮市情報公開課に平和塔の写真を探していただいた。
平成5年10月に撮影されたものを見つけていただき、下記の写真のご提供をいただいた。
それによると、平和塔の左右に銅板と石碑が見える。

平成5年10月撮影の平和塔(提供西宮市情報公開課)
時間が経っている割に綺麗な状態の銅板(西宮市情報公開課提供)
平和塔の横にある石碑の表(西宮市情報公開課提供)
石碑の裏側(西宮市情報公開課提供)

平和塔の横にあるこの石碑については、市研究にしのみや3号の中で桟敷さんがこのように話されている。
「横に石碑が建っています。それに、平和を祈る心、行動の証明みたいなものという意味を書いています。」

石碑には「朝夕、山を仰いで世界の平和を祈る」という文章が見える。

また裏側には、桟敷さんが「寄付を頂いた。」と書かれていた山縣富貴子さんのお名前も見える。
当時の神呪寺のご住職のお名前も見えるが、おそらく神呪寺の所有地に建てられていることからご尽力されたのだろう。

実は甲山は、県の所有地が大きいが南側の一部は神呪寺の所有地となっている。
平和塔は神呪寺の敷地内にあるのだろう。

近年は連合婦人会の高齢化で、毎年4月11日にされていた甲山の平和塔前でのセレモニーも見送られれいるのが現状だという。
この記事で、一人でも多くの方に平和塔の存在や建立への思い、その経緯などが伝わればいいなと思う。

西宮市は兵庫県内でいちはやく「平和非核都市」を宣言したが、それが昭和58年だった。
それよりもっと早くに、自ら募金活動をし平和を祈るために甲山の頂上に平和塔を建てた当時の女性達のことをここに書き記しておきたい。

心から平和を求めた西宮の女性たち

当時、平和塔の除幕もされた山縣富貴子さんのお孫さんの郷古達也氏から、当時の貴重な情報もいただいた。
「祖母は、聖地である甲山が、増加する登山客に汚されることを憂い、山頂に『土足に汚されぬ一点』を設けたいとして、宗教などに偏さない「平和塔」を建てたいと発願。当時は、戦後日も浅く、平和を希求する西宮市連合婦人会の女性達の切実な悲願として、何らかの形で永久に平和を象徴するものを具現したいとする考えがあり、衆議一決、当時の西宮市長(夙川の桜を整備した辰馬卯一郎市長)はじめ関係各方面を動かして、平和塔が建立されました。」と郷古さん。

この平和塔設置については、市史研究「にしのみや」3号「語り継ぐ西宮の現代史」の中に、当時の連合婦人会会長桟敷朝子さんの対談が掲載されていた。

それによると、平和塔建立については山縣夫人が多額の寄付をされたことや、婦人会として多くの署名も集め、財界に寄付を募りに足を運んだことなども書かれていた。
そして新聞に掲載されたパールバックのメッセージに桟敷会長が素早く反応し、パールバックとやりとりをしたことについて、山縣さんがとても喜んだことなども書かれている。

また塔の名称については「平和祈念塔」にするか「平和記念塔」にするかと言うことで、山縣さんと桟敷さんの間で議論となり、当時の辰馬市長によって「平和塔」に落ち着いたと言うこともあったようだ。
お二人のそれぞれの平和への思いがどれほど強かったことかが、この冊子を読んでいると伝わってくるように思った。

桟敷朝子さん(右)と山縣富貴子さん(左)の手で除幕(西宮市情報公開課提供)

建立に向けて寄付を募るために集めた15,000人(当時婦人会の会員が1万人)の署名は、名塩和紙にしたためられ、平和塔の下に収められているようだ。

また市史研究「にしのみや」3号には、パールバックとの手紙のやり取りの過程も書かれており、「平和への願い」の第7号では1988年7月にパールバックの手紙の展示などがされいたことも分かる。

平和塔建立20周年の時に「平和塔建立記」と言う小冊子が作られたようだが、今回その冊子までは行き当たらなかった。

写真で見る鍬入れ式から除幕式まで


鍬入れ式 昭和30年7月7日 (郷古達也氏提供)
鍬入れ式では箏曲六段を山縣富貴子さんが奏した(郷古達也氏提供)
この日の悪天候についても、小冊子の中で触れられている。
(郷古達也氏提供)
定礎式:昭和30年11月11日 平和塔にはさまざまな資料も収められている(郷古達也氏提供)
香櫨園浜の浄砂を塔の周りに撒き、会員が持ち寄ったグリ石も収められている。
名塩和紙に名塩和紙にしたためられた写経や署名など(郷古達也氏提供)
(郷古達也氏提供)
完成した平和塔(郷古達也氏提供)
この頃は、山火事の影響で禿山だったので眺望がいいが、今は木が育ち下は見えなくなっている。
除幕式のために山頂を目指す参加者(郷古達也氏提供)
除幕式(郷古達也氏提供)
除幕式(郷古達也氏提供)
(郷古達也氏提供)
建立20周年記念セレモニー(郷古達也氏提供)
建立20周年記念。幸田ご住職と記念写真(郷古達也氏提供)

1500人が見守ったという甲山頂上での除幕式

1956年(昭和31年)4月11日の除幕式の時の写真は、西宮市のデジタルアーカイブにもたくさんある。
そこには、下記のような説明がついている。
<西宮市連合婦人会の会員が、戦争のない社会を子どもたちのために、という願いをこめて「平和塔」を建設しました。塔・台座ともに御影石造りで、塔の三面にはギリシャ神話の母子像・平和の女神・ヴィーナス像が彫られています。これは、画家 伊藤慶之助氏によって描かれ、彫刻家 長谷川雅司氏によって彫られたものです。昭和31年4月11日、甲山の山頂において平和塔除幕式が行われ、1500人あまりの人々が集まりました。式中には朝日新聞社のセスナ機からメッセージが投下されました。>

1500人余りの人が参加した除幕式だったと言うから、この時期の女性の、平和を願う想いの強さが感じられる。

甲山 平和塔
パールバックの手紙を投下したセスナが飛来(西宮市情報公開課提供)

朝日新聞のセスナが甲山にパールバックのメッセージを投下した時の写真も西宮市のデジタルアーカイブ➡︎にあった。(ただし、平和へのねがい7号や20周年記念冊子の記述にあった、投下したのが朝日新聞社であったのかどうかについては、少し疑問がでてきている。)

投下されたパールバックの手紙の入っていた筒(郷古達也氏提供)
ここには「毎日新聞社」の文字が見える。

たくさんの写真を見ると参加者の中には着物姿の方も多かったようで、1500人が集まったということからも、終戦から10年ほどの時期にあって「平和な世」を望む気持ちが強かったのだろうと思う。

平和塔建立20周年に作られた小冊子「平和塔建立記」

この小冊子「平和塔建立記」がなかなか見つからず困っていたところ、山縣富貴子さんのお孫さんの郷古達也氏に見つけていただいた。
4ページほどの資料になっているがここに紹介しておこうと思う。

建立20周年ということになっているが、日付は昭和49年4月11日になっている(郷古達也氏提供)

この冊子には山縣富貴子さんのことも詳しく書かれていた。
「元厚生大臣山縣勝見氏夫人富貴子氏が、古来から聖地として仰がれていた甲山が、急増する登山客に汚されることを憂い・・・」という記述が見える。

この頃のハイキングブームも伴って、眺望の良い甲山は手軽なコースとして人気になっていたようだ。

元々、甲山には神功皇后が平和を祈って兜を埋めたという伝説や、廣田神社の御神体であったという説などもあるが、この頃は「甲山が聖地である」という認識が低くなっていたのかもしれない。

それを憂いた山縣富貴子さんと、平和を願う婦人の悲願を具現化した計画がいと考えていた桟敷朝子会長が出会ったことで、甲山に塔を建てるという計画が一気に進んだのだろう。

平和塔建立記(郷古達也氏提供)
平和塔建立記(郷古達也氏提供)
平和塔建立記(郷古達也氏提供)
甲山

平和塔の横にある石碑の和歌や誓いの言葉のことなども、この冊子に詳しく書かれていた。

和歌:京都八坂神社宮司/高原美忠師
「なごみあふ心ここに寄り集い 平けき世を築きあぐらむ」

誓いの言葉:西宮連合婦人会会長/桟敷朝子
揮毫:寿々の会長/山縣富貴子
「女性一人一人の平和を祈る心の象徴として、朝夕これを仰ぎ、世界の平和を祈り、平和社会建設に責任を持ち、各々が愛の心で総ての事に当たる事を誓います。」

またこの平和塔建立に際しては、当時の辰馬卯一郎に西宮市長と神呪寺住職幸田光玄師の理解と協力が大きかったことも記されている。

甲山山頂で見つかった銅戈(どうか)

銅戈(どうか)とは、青銅製の
ほこ

弥生時代に、中国から銅剣・銅鉾などと共に伝わったと言われている。
日本では刃をつけない祭器に変わったと考えられている。

西宮でこの銅戈が、見つかったのはなんと甲山頂上。西宮市の指定文化財になっている。
それも平和塔建立の後の1970年(昭和45年)に平和塔の近くで見つかった。
なんと、見つけたのは甲山にハイキングにきた豊中の高校生だったようだ。
平和塔建立のための整地工事が、発見のきっかけになったのではないのだろうかという考察もあるようだ。

甲山

この時、周辺部の調査も行われたようだが、銅戈埋納遺構やその他の遺物は発見されなかったと記されている。
ただ、甲山山頂では弥生土器の破片や石鏃、サヌカイト片などが採集されていることから銅戈と同時期の遺構が存在する可能性があるとも言われている。

西宮市のシンボルとも言える甲山は、その昔、神功皇后が如意宝珠及や兜を埋めたためこの名がついたとの言い伝えもあるが、やはり古くから特別な場所として信仰の対象であっただろう。

また名前の由来さまざま諸説あるようだが、古代、神が降り立った「神の山(コウノヤマ)(カンノヤマ)」から来たのではないかと言う説が多いようだ。

今では木々が成長し山頂に立つと下が見下ろせないが、昔は禿山だった時代もあった。

飯田寿作「酒都遊観記」にはこんな記述がある。
甲山の頂上に数株の巨松が生えておる格好が、ちょうどかつての大独逸帝国の鉄血宰相ビスマークのかぶっていたヘルメット、あの真中にとがった角のある軍帽に似ているので、汽車の窓から望見して外国人はこれをビスマルク・ヒルと呼んでいたそうである。うまい形容をしたものである。

田山花袋の「温泉めぐり」➡︎にもこのビスマルク山と言う表現も見える。
村上春樹も「お椀山」と言う表現で甲山を作品の中で書いている。

西宮文学回廊のウェブサイトもご参考に➡︎

最後に・・・・

平和塔建立に大きな存在であった山縣富貴子さんのお孫さんの郷古達也氏から貴重な写真や情報をいただきました。ありがとうございました。

また、この記事を書くきっかけになったのは、阪急・阪神沿線文学散歩を書くseitar0さんからのご連絡でした。ありがとうございました。

デジタルアーカイブを管理されている総務課の職員の方のご支援もありがとうございました。

誰もが大好きな甲山!
その頂上に「本当に戦争のない社会を作ろことにしよう」という思いで先人が建てた平和塔が佇んでいる。
明日からは甲山を見る時、先人が残してくれた平和への想いを受け止め、繋いでいこうと思う。

投稿日時 : 2025-01-30 09:14:41

更新日時 : 2025-01-30 16:34:10

この記事の著者

編集部|J

『西宮流(にしのみやスタイル)』の立ち上げ時からのスタッフ。
日々、様々な記事を書きながら西宮のヒト・モノ・コトを繋ぎます。

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