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和ろうそく職人 松本恭和さん

 時代劇や大河ドラマを観ていて、ほの暗い部屋の中で、ゆらぐ灯りの和ろうそくに目を奪われたことはないだろうか。最近ではその色や形の美しさから、町のインテリアショップや雑貨店でもよく目にする。
 全国に約30店舗ほどしかない和ろうそく屋の一つがここ西宮市にある。西宮市今津水波町にある「有限会社松本商店」がそれだ。松本商店は、兵庫県伝統的工芸品に指定された和ろうそくを製造、販売しながらその伝統を守り続けている。
 今回、年明け早々のお忙しい最中ではあるが、父松本純男さんから技術を受け継ぎ、松本商店の四代目を継承してがんばる松本恭和社長にお話を伺った。


和ろうそく職人 松本恭和さん
西宮市生まれ。
銀行員を経験した後家業の松本商店を継ぐ。
伝統工芸品としての和ろうそく作りの実演、販売のかたわら、月一回のペースで北は北海道から南は沖縄まで、全国の百貨店等をめぐって活躍中。
三世代で七人家族。
鳴尾高校時代は野球部。

創業

 松本商店の創業は、江戸時代の嘉永年間に遡る。「姫路の井阪商店からのれん分けされました。創業者は井阪亀吉ですが、創業時に姓を井阪から松本に変えたと聞いています。」
 当初、松本亀吉は、店を大阪の福島に構えた。当時和ろうそく屋は、姫路に10軒、大阪には30軒ほどあったという。まだ、電気の普及されていない頃のこと。
 「和ろうそくは部屋の灯りとしてのみ利用されていました。しかしそれも、城下町の、どちらかといえば裕福なご家庭や料亭などで親しまれていたようです。」

 昭和20年6月の大阪大空襲で、店が丸焼けになり、2年ほど淡路島に身を寄せていたが、西宮の昭和ろうそく(のちの内外キャンドル)の松本氏(姓はたまたま同じ)の助けを受け、一家で西宮に引っ越すことになった。
 その後今津に土地を買い、店を構え、松本商店を再開した。「昭和ろうそくの松本さんは、うちが困っているときに手を差し伸べてくださいました。松本ろうそくにとって、昭和ろうそくの松本さんは大恩人なんです。」

修行時代

 実は、松本社長は28歳で和ろうそく作りに携わるまでの5年間、銀行勤めの経験がある。松本家では、若いうちに外の世界で人生経験を積むというのがしきたりのようだ。三代目は国鉄の機関士をしていたというから驚く。
 銀行では毎晩11時まで働くのは当たり前、ノルマもあって結構厳しい環境であった。しかし、松本社長には、上司から言われた忘れられないことばがあるという。それは、「家業を継いで一流になるつもりなら、銀行マンとしても一流になれ。」ということばだった。
 「今思えば銀行に勤めていた5年間は、僕にとって大変貴重な時間でした。人の気持ちや社会のことなど、いろいろ教えていただきました。」

本業へ

 そして、いよいよ四代目として家業を継ぐこととなる。が「華々しい銀行マンをやめ、親父の後を継ぐためにこの世界にはいったものの、和ろうそくの仕事は見るからに地味で辛気臭く感じました。」
松本商店の店先

松本商店の店先

 手作りの仕事になじめず毎晩父親とぶつかる始末。「家内工業ですからね、年の瀬は正月用のろうそく作りのために、家じゅう夜も昼もなく働いている。元旦だって、家族が一同に揃うことなんてないわけですよ。」そこで思いついたのが、和ろうそく作りのコンピューター化。

 手作りではなく、コンピューターで管理された形状も大きさも均一な和ろうそくを一度に大量に供給しようというものだった。製造機器の開発については、実は三代目の父松本純男氏には実績がある。三代目は父親に相談した際、大反対されたという。
 「そんなものができたら、今津の町中を逆立ちして歩いてやると言っていたらしいですよ(笑)。」そんな経験をふまえてか、父は息子のアイデアには大賛成。夢のコンピューターの開発が始まった。

阪神大震災

 果たして、そのコンピューターは平成6年12月に完成する。おそらくは、その機会は日本初となるはずだった。「実は僕の中にもう一つ皮算用がありましてね。この機械がやがて日本中の和ろうそく屋さんに売れるんじゃあないかと…。」
 そして、年が明けて、いよいよ機械を稼働しようとした矢先の1月17日、あの阪神大震災が起こったのだ。数百キロもあるコンピューターは一気に倒れ、そのまま壊れてしまった。「残ったのは壊れたコンピューターと借金だけ。」松本社長35歳の時だった。

再起

 震災は、無情にも和ろうそく製造機の開発、普及という松本社長の野望を根こそぎ覆してしまった。ところが皮肉にも、借金を返済するために必死で和ろうそく作りに精を出すうちに、社長はその伝統的な製法(清浄生掛け.しょうじょうきがけ)のすばらしさを改めて知り、和ろうそくの持つ美しさに魅せられていったというのだ。

芯に蝋を塗り重ねていく

芯に蝋を塗り重ねていく

 「原料の木ろうというのは、いつも同じ状態ではありません。気温が高くなると軟らかくなりますが、冷夏の時は逆に硬くなります。ろうそくの芯は、下請けのおばあちゃんとかが作ってくれるのですが、和紙にイ草を巻きつけていくという、一つ一つが手作りなんです。だから太さはまちまちで、それを同じ太さのろうそくに仕上げないといけないのですから、かなりの熟練を必要とします。和ろうそくは人間と一緒です。会話しながら、一本一本丁寧に作り上げなければならないのです。」
 修行時代に培われた精神は図らずも、のちの人生に必ずプラスに作用する。それまで伺ってきた数々のエピソードは、松本社長の生き方がどうしてこうなったのかを説明しているようだ。

 「僕らは完成度の高い和ろうそくを作ろうと思うから、大きさも形も炎のゆらめきさえ完璧な、全く同じものを作りたいと思っています。それが、コンピューターを作ろうとした目的でもあります。しかし、手作りの和ろうそくは、その日の木ろうの具合や、おばあちゃんたちが作ってくれる芯の太さによって、一本一本違ってきます。おかしな話ですが、和ろうそくをお使いになられる方は、そんな炎の大きさやゆらめきの違いを楽しんでおられるようです。例えば、和ろうそくをお仏壇に使われる方は、炎の、ゆらめきで、ご先祖さんと会話しているような気になるとか言われますね。」

蝋の原材料の櫨の実

蝋の原材料の櫨の実

 ここで、和ろうそくについて簡単に説明しよう。

 和ろうそくの原料は、植物のハゼの木の実の油の木ろうである。芯は和紙にイ草のズイを巻きつけたものだ。和ろうそくは16世紀の終わりに中国から伝わり、江戸時代に最盛期を迎える。近年は、和風小物やインテリアの人気商品となり、神社やお寺のほかに一般の人にも人気があるという。
 和ろうそくと洋ろうそくの違いは、和ろうそくの原料がハゼの実、イ草、和紙といった植物であるのに対し、洋ろうそくは石油を精製して作るパラフィンワックスが原料である。

海を渡った和ろうそく

 松本社長は1995年に台湾の伝統工芸展、2007年にはアメリカ合衆国で和ろうそく作りの実演をした。

ローソクの絵も、一つずつ手描き

ローソクの絵も、一つずつ手描き

 「シアトルは神戸市の姉妹都市ですが、そこに兵庫県の出先機関があります。昨年シアトルと西宮市の姉妹都市であるスポーケン市に行って、和ろうそくを紹介してきました。」市民の反応は上々だったという。
 「実はたいへん驚きました。海外には歴史も古く、きれいに装飾されたキャンドルはたくさんありますからね。まさかアメリカ人が、日本の和ろうそくなんかに興味を抱くなんて予想もしませんでした。」では、アメリカ人は和ろうそくのどんなところに興味を持ったのだろうか。

 「アメリカ人が最も興味を持ったのは、和ろうそくの原料が全て純植物性であるということでした。地球環境やエコロジーといった問題がいまや日本だけでなく、世界中の関心事だということを改めて知りました。」
現地では和ろうそく作りのワークショップを開いた。すると、興味のある人々で黒山の人だかりができたそうだ。質問コーナーでは、お年寄りから小学生まで次々に手が挙がった。
「いい仕事をしているんだと、何だかかえって勇気づけられましたよ。」

これから

真剣な職人の目になった松本さん

真剣な職人の目になった松本さん

 松本社長に今後を伺ってみた。3人の娘さんがいるが、「3人それぞれ持ってるものが違うようです。将来は、3姉妹が力を合わせて松本商店のこれからを作り上げていってほしいと願っています。」
 今は、月に200キロを目標に、ランニングを続けているという。2年連続で、東京マラソンへの出場も決まった。「今年の目標は5時間を切ること。」精悍な顔がまぶしい。ぜひそちらもがんばってほしい。
 松本社長の話を伺っているとあまりの話上手に、正直時間の経つのを忘れてしまいそうであった。

職人は、その手でいつも完璧なものを作りたいと願う。しかし、完璧でない不完全なものの中に、人間が手間暇かけて作り上げた造形の美しさや温もりを発見したときに、人は心を動かされてしまうのだろう。松本商店の店先には、そんな手作りの和ろうそくが陳列されてある。

 気取らず、欲張らず、感謝の気持ちを決して忘れない。
 松本商店のそんな気持ちが発見できる。

掲載日:2008年2月11日

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